水晶体の等価線量限度
水晶体等価線量限度の改正内容
2021年4月1日に施行された改正電離放射線障害防止規則により、眼の水晶体に対する等価線量限度が大幅に見直されました。従来の年間150mSvという基準から、5年間の平均で20mSv/年、かついずれの1年においても50mSvを超えないという新基準に変更されています。この改正は国際放射線防護委員会(ICRP)が2011年4月に発表した「組織反応に関する声明」(ソウル声明)に基づくもので、最新の疫学的知見を踏まえた結果、水晶体のしきい線量が従来の想定よりも低いことが判明したためです。
参考)https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/000583147.pdf
改正の背景には、チェルノブイリ原発事故の作業従事者や原爆被ばく者の長期追跡調査があります。これらの研究により、低線量の慢性被ばくでも白内障のリスクが増加することが明らかになりました。特にチェルノブイリ事故処理員8,607名を対象とした研究では、病期Ⅰの後嚢下白内障及び皮質白内障のしきい線量の最良推定値は350mGyであり、700mGy以上の値は信頼区間から除外されました。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4202294/
新基準では、5年間を1つの管理期間として設定し、その平均が年間20mSvを超えないこと、さらに単年度でも50mSvを超えないことという二重の制限が設けられています。この管理方法は実効線量の管理と同様の考え方を採用しており、年度ごとの変動を考慮しながら長期的な被ばく管理を実現する仕組みです。
参考)「眼の水晶体の被ばく限度の見直し等に関する検討会」の報告書取…
厚生労働省の資料では、水晶体等価線量限度の改正経緯と具体的な数値基準が詳細に解説されています(PDF)
水晶体被ばくと白内障のリスク関係
水晶体は人体の中で最も放射線感受性が高い臓器の一つであり、被ばく量が多いと白内障を発症するリスクが高まります。放射線白内障は初期段階ではVacuoles(空胞)やdot等の微小混濁として現れ、進行すると後囊下白内障に発展することが知られています。
参考)日本白内障学会
IVR(画像下治療)に従事する医師を対象とした研究では、水晶体に対する累積被ばく線量の平均値がIVR医師で6.0Sv、補助員で1.5Svと推定されました。未被ばくの対照群と比較して、IVR医師の後嚢下混濁の相対リスクは3.2倍に達することが示されています。この結果は、医療従事者における職業被ばくの深刻さを物語っています。
参考)https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/rousai/dl/130726_3-21.pdf
米国の放射線技師35,700名を20年間追跡した前向きコホート研究では、顔面又は頸部に10回以上の診断X線を受けると白内障リスクの増加と有意に関連することが判明しました。さらに長期の職業的被ばくによる低線量被ばくも白内障診断のリスク増加とわずかに関連していると結論付けられており、累積的な低線量被ばくの影響が無視できないことが明らかになっています。
日本白内障学会を中心とした調査では、2011年の福島第一原発事故対応にあたった作業従事者に対する追跡調査が実施されており、少ない放射線を長期間慢性的に浴びた場合の水晶体への影響が同様に懸念されています。宇宙飛行士や医療従事者など職業被ばくのある集団でも白内障発症リスクが上がることが確認されています。
放射線作業者の水晶体被ばく実態
医療現場における放射線診療従事者の水晶体被ばく実態は、診療科によって大きく異なることが調査で明らかになっています。全国17か所の医療機関(国立病院機構関連施設)の医師2,207人を対象とした調査では、循環器内科、消化器内科、消化器外科、放射線診断科、整形外科の医師において、眼の水晶体の等価線量が年間20mSvを超える割合が特に高いことが判明しました。
具体的なデータを見ると、循環器内科では15.4%の医師が年間20mSvを超え、0.3%が50mSvを超えています。消化器内科では11.0%が20mSv超、3.7%が50mSv超という結果でした。整形外科では18.2%が20mSv超、脳神経外科でも2.3%が20mSv超の被ばくを受けていました。
特定機能病院と一般病院における経年調査では、被ばく検出者の1人あたりの平均被ばく線量が経年的に増加していることも確認されています。1998年から2017年までの約20年間で、水晶体の等価線量は検出者のみで年間約0.5mSvから約2mSvへと増加傾向を示しました。さらに被ばく線量の上位3名の平均線量は、全検出者の平均線量のおよそ10倍に達しており、特定の医師への被ばく集中が顕著です。
循環器科領域の医師における詳細な測定では、防護眼鏡を用いない場合、左眼の水晶体等価線量が原則として防護板を使用しても月間1.7mSv(年間20mSvに相当)を超えていました。これは天吊り防護板を用いても新基準の達成が困難であることを示しています。
日本医師会の報告書では、医療従事者の被ばく実態と新基準への対応について詳しく解説されています
水晶体防護対策と線量測定方法
水晶体の被ばく線量を正確に評価し、適切に管理するためには、測定方法の見直しと防護対策の強化が不可欠です。改正電離則では、外部被ばくによる線量測定に3mm線量当量(Hp(3))が新たに追加され、1cm線量当量、3mm線量当量、70μm線量当量のうち適切なものを使用することが規定されました。
参考)https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_06824.html
眼の水晶体の等価線量を正確に評価するためには、眼の近傍や全面マスクの内側に放射線測定器を装着して測定することが推奨されています。従来の頸部装着による測定と比較して、眼の近傍での測定はより実態に即した評価が可能です。日本保健物理学会が発行した「眼の水晶体の線量モニタリングのガイドライン」では、被ばく状況に応じた測定位置の選択フローが示されています。
参考)http://www.jhps.or.jp/upimg/files/suishotai-guideline.pdf
放射線防護用眼鏡(防護メガネ)の使用は、水晶体被ばく低減の最も効果的な対策の一つです。循環器領域のIVR医師9名を対象とした測定では、防護眼鏡の遮蔽率は約60%であることが確認されました。防護眼鏡の内側と外側を同時測定した結果、眼の水晶体の等価線量には良好な相関関係が認められており、防護眼鏡を用いた眼の近傍での測定値は、頸部での測定値と比較して約68%の被ばく低減効果が得られています。
参考)https://www.mhlw.go.jp/content/11201000/000462881.pdf
その他の防護対策として、天吊り防護板や医療向け可動式の防護アクリルガラスの使用、適切な遮蔽設備の配置が推奨されています。局所的に眼の水晶体への被ばくが高くなるおそれのある作業については、これらの保護具や設備を組み合わせた多層的な防護が必要です。
参考)エラー
防護対策の実施状況 | 被ばく低減率 |
---|---|
防護眼鏡なし(頸部測定) | 基準値 |
防護眼鏡なし(眼の近傍測定) | 約36%低減 |
防護眼鏡あり(眼の近傍測定) | 約68%低減 |
防護眼鏡のみ(遮蔽効果) | 約60%低減 |
医療現場における水晶体限度の経過措置
新しい水晶体等価線量限度の導入は、特に高線量被ばくを受ける医療従事者にとって大きな影響があるため、段階的な移行のための経過措置が設けられました。2021年4月1日の施行後、十分な放射線防護措置を講じてもなお高い被ばく線量を眼の水晶体に受ける可能性のある医師については、一定期間の特例が認められています。
具体的には、2021年4月1日から2023年3月31日までの2年間は、特定の医師に対して眼の水晶体の等価線量限度を年間50mSvを超えないこととする経過措置が適用されました。さらに2023年4月1日から2026年3月31日までの3年間は、経過措置対象者について3年間で60mSv及び年間50mSvという基準が設定されています。
経過措置の対象となるのは、遮蔽その他の適切な放射線防護措置を講じてもなおその眼の水晶体に受ける等価線量が5年間につき100mSvを超えるおそれのある医師であって、その行う診療に高度の専門的な知識経験を必要とし、かつ、そのために後任者を容易に得ることができないものとされています。これは管理区域において医学的処置又は手術を行う医師のうち、当該業務に欠くことのできない高度の専門的な知識及び経験を有する者が該当します。
厚生労働省の検討会報告書では、事業者に対して対象となる労働者について可能な限り早期に新たな水晶体の等価線量限度を遵守することが可能となるよう努めることが望ましいとされています。また国に対しては、放射線防護眼鏡等の放射線防護機材による防護能力の強化などのための開発推進、および水晶体への被ばく線量が高い業務を行う事業者への支援が求められています。
眼の水晶体に受ける等価線量が継続的に年間20mSvを超えるおそれのある者に対しては、健康診断の項目の白内障に関する眼の検査の省略は認めないこととされており、眼科医による検査が望ましいとされています。労働基準監督署と都道府県等(保健所)は、医療機関で医師等が適切に業務遂行できるよう情報共有により連携を図ることが求められています。
水晶体限度改正による産業別への影響
水晶体等価線量限度の改正は、医療分野だけでなく様々な産業分野に影響を及ぼしています。平成29年度のデータによると、一般医療分野では364,740人の放射線業務従事者のうち、2,221人(約0.6%)が年間20mSvを超える被ばくを受けていました。このうち369人は50mSvを超えており、新基準の達成が課題となっています。
原子力分野では54,446人の従事者のうち、1人が年間20mSvを超える被ばくを記録していました。東京電力福島第一原子力発電所の廃炉作業では13,943人の作業者のうち315人が20mSv超、48人が50mSv超の被ばくを受けており、特に厳しい作業環境が続いています。
非破壊検査分野や研究教育分野でも、少数ながら20mSvを超える被ばく者が存在することが確認されています。歯科医療や獣医療の分野では、年間20mSvを超える被ばく者は報告されていませんが、適切な線量管理の継続が重要です。
業種別の特徴として、医療分野は被ばく者数が最も多く、かつ高線量被ばくのリスクも高い分野であることが明らかです。循環器内科や消化器内科などIVR(画像下治療)を多く実施する診療科では、手技の複雑化や件数の増加に伴い、術者の被ばく線量が増加傾向にあります。
東京電力では、ICRPの勧告を自主的かつ段階的に取り入れる方針を表明しており、発電所で働く作業者の安全性向上を図るため、管理値の変更などの新たな取り組みを実施しています。各産業分野において、放射線防護設備の改善、作業手順の見直し、防護具の活用など、多角的な対策が求められています。