野兎病と感染経路
野兎病(Tularemia)は、野兎病菌(Francisella tularensis)による急性熱性疾患で、代表的な動物由来感染症の一つです。この疾患は北米、北アジアからヨーロッパに至る、ほぼ北緯30度以北の北半球に広く分布しています。
野兎病菌はグラム陰性の小短桿菌(0.2×0.3~0.7μm)で多形性を示し、好気性菌です。特徴的なのは宿主のマクロファージ内で増殖する細胞内寄生細菌であることです。環境中では水や泥、死体中などで数週間は生存可能とされていますが、熱に対しては弱く、55度10分程度で容易に死滅します。
野兎病菌の亜種と病原性の違い
野兎病菌は現在、主に3つの亜種に分類されており、それぞれ分布地域や病原性が異なります。
- F. tularensis subsp. tularensis(Type A)
- 主に北米に分布
- 10個以下の菌で感染が成立する強毒型
- 有効な抗菌薬での治療がなされない場合、致死率は5%
- F. tularensis subsp. holarctica(Type B)
- ユーラシア大陸から北米にかけて広範囲に分布
- 日本に分布する野兎病菌もこの亜種
- 病原性は比較的弱く、この亜種の感染による死亡例は極めて稀
- F. tularensis subsp. mediasiatica
- 中央アジアから旧ソ連の一部地域に分布
- 病原性は強くない
また、北米に分布する別種のFrancisella novicidaも、遺伝子配列の相同性から亜種として提唱されています。
野兎病の感染源動物と自然界での循環
野兎病菌の自然保有例は世界的に非常に多くの動物種で報告されています。
- 哺乳類:190種
- 鳥類:23種
- 両棲類:3種
- マダニなどの無脊椎動物:88種
自然界では、マダニなどの吸血性節足動物を介して、主に齧歯類やノウサギの間で維持されています。日本におけるヒトへの感染の90%以上は、ノウサギとの接触によるものです。
その他、日本で感染源や菌が分離された動物
- ネコ
- リス
- ツキノワグマ
- ヒミズ
- ヤマドリ
- カラス
- キジ
- 一部のマダニ類
などが報告されています。
野兎病の主要な感染経路とリスク要因
野兎病の感染経路は多岐にわたりますが、主な感染経路は以下の通りです。
- 直接接触感染
- 保菌動物の剥皮作業や肉の調理の際に、菌を含んだ血液や臓器に直接触れることによる感染
- 野兎病菌の感染力は極めて強く、目などの粘膜部分や皮膚の細かい傷、さらには健康な皮膚からも侵入可能
- 吸血性節足動物による感染
- マダニ類やアブ類等の吸血性節足動物による刺咬からの感染
- ペットに付着したマダニ除去の際に、虫体を潰して体液が目に飛び込んだり、指が汚染されることによる感染
- 経口感染(主に海外での報告)
- 保菌野生齧歯類の排泄物や死体によって汚染された飲用水や食物による感染
- 吸入感染(主に海外での報告)
- 死骸が紛れ込んだ干し草等の粉塵の吸入による感染
ヒトからヒトへの感染は基本的にないとされていますが、患者の潰瘍部からの浸出物などもヒトへの感染源となりうるため、注意が必要です。
特に感染リスクが高い職業や活動
- 狩猟者
- 野生動物を扱う研究者
- 森林作業者
- 獣医師
- アウトドア活動愛好家
などが挙げられます。
野兎病の日本における発生状況と歴史的変遷
日本での野兎病の発生状況は時代とともに大きく変化してきました。1924年に初めて報告されて以来、1994年までの間に合計1,372例の患者が報告されています。
地理的分布。
東北地方全域と関東地方の一部が本病の多発地とされています。
季節性。
発生の季節性は、吸血性節足動物の活動期(4~6月)と狩猟時期(11~1月)の2つのピークを示す傾向があります。
歴史的推移。
- 第二次世界大戦前:年平均13.8件
- 戦後~1955年:年間50~80例と急増
- その後:減少傾向
- 1999年の千葉県での1例以降:報告なし
- 2008年:青森県、福島県、千葉県で合計5例の感染が報告
戦後の患者数の急増は、食糧難のためにノウサギを捕獲・解体する機会が増加したことが要因と考えられています。また、1964年以降は経済の高度成長に伴い生活様式が変化し、ノウサギとの接触機会が減少したことが患者数減少の背景にあると推測されています。
野兎病の獣医学的側面と家畜における影響
野兎病は人獣共通感染症であり、家畜にも影響を与える可能性があります。日本では、馬、めん羊、豚、いのしし、うさぎにおいて家畜伝染病予防法の届出伝染病に指定されています。
家畜での感染状況。
- 日本で分離される野兎病菌は病原性の弱い亜種(F. tularensis subsp. holarctica)であるため、豚や多くの動物は感染しても明らかな臨床症状を示さないことが多い
- うさぎやげっ歯類は高感受性動物で、短期間に敗血症をおこし死亡することがある
病理所見。
死亡したうさぎでは肝臓、脾臓、リンパ節などに塊状になった壊死病変が認められます。
感染経路。
- 保菌動物やその排泄物との直接的な接触
- ダニ、アブなどの吸血性節足動物による刺咬
- 汚染された水からの感染
野兎病菌は感染力が強く、10~50個程度の少数の菌でも感染するといわれています。このため、家畜の管理においては、野生動物との接触を避け、節足動物の防除を徹底することが重要です。
野兎病の症状と診断
野兎病の潜伏期間と初期症状の特徴
野兎病の潜伏期間は、感染成立から通常3日をピークとして1週間以内が多いとされています。ただし、2週間以上や1ヶ月以上におよぶ症例も報告されています。
初期症状。
野兎病の初期症状は非特異的で、以下のような感冒様症状で発症します。
- 突然の発熱(38〜40℃)
- 悪寒・戦慄
- 頭痛
- 筋肉痛
- 関節痛
その後、弛緩熱として長期化する傾向があります。野兎病菌の感染力は極めて強く、目などの粘膜部分や皮膚の細かい傷はもとより、健康な皮膚からも侵入できるのが特徴です。
皮膚から侵入した野兎病菌はその部位で増殖し、侵入部位に関連した所属リンパ節の腫脹、膿瘍化、潰瘍または疼痛を引き起こします。
野兎病の臨床的病型と重症度分類
野兎病は病原菌の侵入部位によって様々な臨床的病型を示します。
- 潰瘍リンパ節型
- 最も一般的な病型
- 野兎病菌の侵入部位に潰瘍形成
- 高熱とともに所属リンパ節の腫脹
- リンパ節型
- 所属リンパ節の腫脹と発熱のみを来す
- 眼腺型
- 眼の粘膜から侵入した場合
- 結膜炎や眼窩周囲のリンパ節腫脹
- 口咽頭型
- 汚染された食物や水からの感染
- 扁桃炎や咽頭炎、頸部リンパ節腫脹
- 肺炎型
- 吸入による感染
- 胸痛を伴う急性肺炎
- 敗血症からの二次感染でも起こり得る
- チフス型
- 意識障害、発熱、髄膜刺激徴候など全身症状のみを示す
重症度は亜種や感染経路、患者の免疫状態によって異なります。北米に分布するF. tularensis subsp. tularensisによる感染は重症化しやすく、治療がなされない場合の致死率は約5%とされています。一方、日本に分布するF. tularensis subsp. holarcticaによる感染は比較的軽症で、死亡例は極めて稀です。
野兎病の検査方法と確定診断のポイント
野兎病の診断には、臨床症状の評価と共に、以下の検査方法が用いられます。
1. 微生物学的検査
- 菌分離:リンパ節穿刺液、手指の原発巣、口腔液、血液などからの培養
- 野兎病菌は特殊な培地(チオグリコレート培地やチョコレート寒天培地など)を必要とし、培養には注意が必要
- バイオセーフティレベル3の施設での取り扱いが必要
2. 血清学的検査
- 凝集試験:患者血清中の抗体価の測定
- 発症後1~2週間で陽性となることが多い
- 単一検体で80倍以上、またはペア血清で4倍以上の抗体価上昇で診断的価値がある
3. 遺伝子検査
- PCR法:病原体のDNAを検出
- 特異的なプライマーを用いたPCR検査で迅速診断が可能
- ISFtu2領域やRD1領域などをPCRで増幅し、菌の亜種や由来地域を推定することも可能
4. 病理組織学的検査
- 生検組織の病理学的検査
- 肉芽腫性炎症像が特徴的
確定診断のポイント
- 疫学的情報(野兎との接触歴、マダニ刺咬歴、発生地域での活動歴など)
- 特徴的な臨床症状(発熱、リンパ節腫脹など)
- 検査所見(菌分離、血清抗体価の上昇、PCR陽性など)
これらを総合的に評価することが重要です。
野兎病と鑑別すべき疾患のリスト
野兎病の症状は非特異的であり、様々な感染症や疾患と類似しているため、適切な鑑別診断が重要です。以下に、野兎病と鑑別すべき主な疾患を示します。
1. リンパ節腫脹を伴う疾患
- 猫ひっかき病(Bartonella henselae感染症)
- 非結核性抗酸菌症
- リンパ節結核
- 悪性リンパ腫
- 伝染性単核症(EBウイルス感染症)
2. 発熱性疾患
- インフルエンザ
- レプトスピラ症
- ブルセラ症
- Q熱
- 日本紅斑熱などのリケッチア感染症
3. 皮膚潰瘍を伴う疾患
- 炭疽
- 梅毒
- 皮膚リーシュマニア症
- 丹毒
- 蜂窩織炎
4. 肺炎型の場合
- 市中肺炎
- レジオネラ肺炎
- マイコプラズマ肺炎
- Q熱肺炎
- 肺結核
鑑別のポイント。
- 疫学的情報(野生動物との接触歴、マダニ刺咬歴など)
- 症状の経過(急性発症の発熱、リンパ節腫脹の特徴など)
- 通常の抗生物質治療に対する反応性
- 特異的検査(血清学的検査、PCR検査など)
特に、野生動物との接触歴やマダニ刺咬歴がある患者で、通常の抗生物質治療に反応しない発熱性疾患を認めた場合は、野兎病を鑑別診断に含めることが重要です。
野兎病の最新診断技術と研究動向
野兎病の診断技術は近年進歩しており、より迅速かつ正確な診断が可能になってきています。以下に、最新の診断技術と研究動向について紹介します。
1. 分子生物学的診断法の進歩
- マルチプレックスPCR:複数の病原体を同時に検出可能なPCR法の開発
- LAMP法(Loop-mediated Isothermal Amplification):等温増幅法による迅速診断
- 次世代シーケンサー(NGS):メタゲノム解析による病原体の網羅的検出
2. 血清学的診断法の改良
- ELISAキットの高感度化:早期診断を可能にする高感度抗体検出法
- マイクロアレイ技術:複数の抗原に対する抗体応答を同時に測定
3. バイオマーカー研究
- 野兎病特異的な宿主応答バイオマーカーの同定
- 重症度予測に役立つバイオマーカーの研究
4. 画像診断技術の応用
- PET-CTなどを用いた感染巣の早期発見と病変の評価
- AIを活用した画像診断支援システムの開発
5. ポイントオブケア検査の開発
- 現場で迅速に結果が得られるラテラルフロー法などの開発
- スマートフォン連携型の簡易診断デバイスの研究
6. 病原体ゲノム解析による疫学調査
- 全ゲノムシーケンスによる菌株の詳細な分類と伝播経路の解明
- 地理情報システム(GIS)と組み合わせた感染リスクマップの作成
これらの新技術は、特に野兎病の発生が稀な日本においても、散発的な症例を見逃さず適切に診断するために重要です。また、バイオテロ対策の観点からも、迅速診断技術の開発は重要な研究課題となっています。
野兎病の治療と予防
野兎病の抗菌薬治療とその効果
野兎病の治療には、適切な抗菌薬の選択と十分な治療期間の確保が重要です。以下に、野兎病に対する抗菌薬治療とその効果について詳述します。
推奨される第一選択薬。