プラセボとプラシーボの違いについて
プラセボの語源と英語発音について
「placebo」という単語は、ラテン語で「私は喜ばせるでしょう」という意味の「placēbō」に由来しています 。この語は、元々カトリック教会において死者の平安を祈る晩課を指していましたが、転じて「患者の機嫌を取る事物」として医学的な文脈で使用されるようになりました 。
英語での発音に関しては、アメリカ英語では「pləsíbou」、イギリス英語では「pləsíːbəu」となります 。これをカタカナ表記すると「プラスィーボウ」のようになり、より日本語化すると「プラシーボ」となることから、英語発音に忠実な表記としては「プラシーボ」の方が適切とする見解があります 。
参考)「プラセボ」と「プラシーボ」の正しい読み方について(表記・呼…
しかし重要な点として、「placebo」の「ce」部分は「セ」ではなく「スィー」と発音するため、ローマ字読みの「プラセボ」では外国人医療従事者には通じないという実際的な問題があります 。
参考)外国人患者さんには通じない医療用語|プラセボ|#073|佐藤…
プラセボ表記の医学文献での使用実態
日本の医学文献や臨床試験において、「プラセボ」と「プラシーボ」のどちらが使用されているかを調査すると、興味深い傾向が見られます。製薬業界用語辞典では「プラセボ効果(プラシーボ効果)」として両方の表記を併記し、「プラセボ効果とはプラシーボ効果の別称」と明記しています 。
医療機関のウェブサイトや診療ガイドラインでは、「プラセボ」表記が優勢です。例えば、国立病院機構神戸医療センターの治験説明資料では「プラセボ」を使用し 、MSDマニュアル プロフェッショナル版でも「プラセボ」で統一されています 。
参考)プラセボ – 23. 臨床薬理学 – MSDマニュアル プロ…
一方、一般向けの説明資料では「プラシーボ」表記も多く見られ、特に薬剤師向けの解説記事では「プラシーボ(プラセボ)効果」として併記される場合が多くなっています 。これは、一般の患者さんにとって「プラシーボ」の方が発音しやすく、理解しやすいという配慮から来ていると考えられます。
参考)薬のプラセボ効果とは?正しく理解してお客さまへの説明に役立て…
プラセボ効果の神経生物学的メカニズム
プラセボ効果の作用機序について、近年の脳科学研究により詳細な神経基盤が明らかになってきています。理化学研究所の研究では、ラットを用いたプラセボ鎮痛効果の実験において、前頭前皮質内側部(mPFC)の一部である前頭前皮質(PrL)が活性化されることが判明しました 。
この研究では、プラセボ鎮痛効果を示すラットにおいて、右側の前頭前皮質と腹外側中脳水道周囲灰白質(vlPAG)の神経活動が関与していることが明らかになりました 。特に注目すべきは、PrLのμオピオイド受容体とvlPAGの機能的結合の強化が、プラセボによる痛み緩和に重要な役割を果たしているという点です 。
さらに、プラセボ効果には単一のメカニズムではなく、多様な神経伝達物質が関与しています。ドーパミン系、内因性オピオイド系、エンドカンナビノイド系の活性化に加えて、オキシトシンやバソプレシンといった愛着に関わるホルモンの放出も関わっていることが報告されています 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9112997/
プラセボ使用の医療現場における実際的考慮
医療現場でのプラセボ使用には、表記の統一以上に重要な倫理的・実践的な課題があります。日本の心身症患者を対象とした臨床研究では、プラセボ投与群の改善率が42.3%に達し、標準薬であるdiazepam投与群(57.6%)との差はわずか15%程度でした 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscpt1970/30/1/30_1_1/_pdf
この研究で興味深いのは、医師患者関係の質がプラセボ効果に大きく影響することが明らかになった点です。医師患者関係が良好な患者では50.0%の改善率を示したのに対し、やや良好程度では31.4%にとどまりました 。また、患者の治療意欲や薬物治療への期待度も重要な要因となっており、期待度が中等度の患者で最もプラセボ効果が高く、過度な期待は逆に効果を減じることも示されています 。
臨床試験においては、プラセボ使用により5〜30%程度の患者にプラセボ効果が確認されることがあります 。同時に、プラセボによって有害作用が現れる「ノセボ効果」も実際によく起こることが知られており、プラセボ効果は望む効果だけでなく、有害作用という形でも現れることがあります 。
参考)薬のプラセボ効果とは?
プラセボ表記の国際的統一と実用的推奨
国際的な医学雑誌では「placebo」として英語表記で統一されており、和訳時の表記ゆれが日本特有の問題となっています。欧州頭痛学会の推奨では、「placebo」と「nocebo」という用語(複数形では「placebos」「nocebos」)を、それぞれの効果や反応と明確に区別することが提案されています 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7519524/
実用的な観点から、表記の選択については以下の基準が推奨されます。
- 学術論文・臨床研究: 「プラセボ」表記が主流であり、査読付き論文では統一性を保つため「プラセボ」を使用することが望ましい
- 患者説明・一般向け資料: 「プラシーボ(プラセボ)」として併記し、発音の理解を促進する
- 国際的な医療従事者との会話: 英語発音に近い「プラシーボ」の使用が実際的
- 医療機関内での統一: 各施設で表記を統一し、混乱を避けることが重要
欧州頭痛学会によるプラセボとノセボ用語に関する推奨事項(英語論文)
プラセボ効果は現代医学において重要な現象であり、その表記の統一は医療従事者間のコミュニケーション向上につながります。「プラセボ」「プラシーボ」のどちらを選択するにせよ、文脈と対象読者を考慮した一貫性のある使用が最も重要です 。
参考)表記ゆれ