前斜角筋とストレッチ
前斜角筋の解剖学的位置と機能
前斜角筋は頸椎の前面に位置する呼吸筋の一つで、第3~第6頸椎横突起の前結節から第1肋骨の前斜角筋結節(リスフラン結節)に付着しています。頸神経叢(C4~C6)によって支配され、頸部の運動と呼吸の両方に関わる重要な筋肉です。
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主な作用として、頸部の側屈(同側)、頸部の前屈(両側収縮)、第1肋骨の挙上(吸気補助)の3つがあります。特に呼吸においては、第1肋骨を引き上げることで胸郭を拡張させ、胸式呼吸をスムーズに行う役割を果たしています。傍胸骨筋とともに協調して働き、安静吸気時には横隔膜による胸郭の内方変位を防ぐ重要な吸気の主動筋として機能します。
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前斜角筋と中斜角筋の間には斜角筋間隙と呼ばれる空間があり、ここを腕神経叢と鎖骨下動脈が通過しています。この解剖学的な特徴が、後述する胸郭出口症候群の発症メカニズムに深く関わっています。
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前斜角筋が硬くなる原因とメカニズム
前斜角筋が硬くなる最も多い原因は、長時間の不良姿勢です。スマートフォンやパソコンの使用時に首が前に出る姿勢、机を覗き込むように勉強や読書をする姿勢は、斜角筋の緊張を高める大きな要因となります。このような頭部前方位(Forward Head Posture)では、頭が身体の前方に来るため、斜角筋が首を安定させるために持続的に働き続けることになります。
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なで肩などの骨格的な問題も原因の一つです。鎖骨が下がっていると前斜角筋と中斜角筋の隙間が狭くなりやすく、筋力不足が根底にある場合もあります。
参考)ブログエラー
呼吸パターンも前斜角筋の緊張に影響を与えます。胸式呼吸を主に行う人は、前斜角筋が呼吸補助筋として過剰に働くため、筋肉が凝りやすくなります。呼吸が浅い人ほど前斜角筋が過剰に働きやすい傾向があるため、筋の状態だけでなく呼吸状態も確認することが重要です。
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むち打ちなどの外傷も原因となることがあります。首が急に後ろに持っていかれる衝撃が加わると、頚椎を損傷しないよう前斜角筋が強く収縮し、この収縮が後々まで残って凝りの原因となる場合があります。また、冷えによる斜角筋の筋温や活動の低下、心理的ストレスによる頚周りや肩周りの筋肉の緊張も発症要因となります。
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前斜角筋ストレッチの正しいやり方と手順
前斜角筋の基本的なストレッチ方法は、以下の手順で行います。まず背筋をしっかり伸ばした姿勢を取り、右手を左の鎖骨の上に置きます。次に、息を吐きながら頭をゆっくりと右に倒していきます。
ストレッチのポイントは、鎖骨周辺と耳たぶの後ろあたりを引っ張り合うようなイメージで伸ばすことです。右腕を後ろに回して右肩甲骨を背中の中心に寄せ、左手を右鎖骨の延長上に置いて右肩をやや後ろに押すと、より効果的に前斜角筋を伸ばすことができます。
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保持時間は10~30秒程度が適切で、3~5回繰り返します。ストレッチ体勢をキープしている間は自然に呼吸を続け、息を止めないようにすることが重要です。反対側も同様に行い、左右のバランスを整えます。
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第1肋骨を下制させながら行うより高度な方法もあります。鎖骨直上で皮下に指を入れ、やさしく下方向へ保持した状態で、頸部を反対側へ側屈+軽い伸展を加えます。必要に応じて同側回旋を少し加えると、前斜角筋に狙いが合いやすくなります。
中斜角筋や後斜角筋を分けてストレッチする場合、中斜角筋は「反対側側屈(ニュートラル~軽伸展)」、後斜角筋は「反対側側屈+反対側回旋+やや屈曲」で狙うと的中率が上がります。
前斜角筋ストレッチの注意点と禁忌事項
前斜角筋のストレッチを行う際には、いくつかの重要な注意点があります。最も重要なのは、痛みなし範囲で行うことで、めまいやしびれが出る姿勢は必ず避けなければなりません。ストレッチ中に首や肩周りに痛みやしびれを伴う場合は、すぐに中止する必要があります。
左手で肩を押すことで斜角筋の伸びが深まりますが、押し過ぎないように注意してください。前斜角筋の近くには血管が通っているため、セルフマッサージを行う際もあまり強く押しすぎないよう気をつける必要があります。
頚椎症状がある場合は特に慎重な対応が求められます。頚椎に問題がある症例では、動的なストレッチではなく筋持久トレーニング(アイソメトリック)を優先することが推奨されています。また、頸椎椎間板ヘルニアや頚椎症性神経根症などの疾患がある場合は、医師や理学療法士に相談してから行うべきです。
ストレッチ後に楽になったりスッキリしていればOKですが、逆に症状が悪化する場合は方法を見直す必要があります。心地よく感じるところを丁寧にほぐしていくことがポイントで、無理な伸張は避けるべきです。
前斜角筋による症状と胸郭出口症候群
前斜角筋の過緊張は、様々な症状を引き起こします。代表的な症状として、肩こり、首こり、肩甲骨の内側のだるさやコリが挙げられます。これらの症状が悪化すると、痛みや指先・腕にしびれ、手先が冷えるような感覚などが現れることがあります。
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前斜角筋は症状のトリガーポイントになっている場合があり、斜角筋を圧迫すると普段コリやだるさを感じている部位に響くような感覚や、症状が飛ぶような感覚がします。肩や首の凝っている部分をマッサージしたり筋肉を伸ばしても治りにくいのは、症状が出ている部位と原因になっている場所が違うためです。
前斜角筋の過緊張は胸郭出口症候群(TOS)の主要な原因の一つです。胸郭出口症候群では、肩こり、頚肩腕部痛や上肢、特に第4・5指側(尺骨神経領域)のしびれや痛みを認めます。TOSの成因として、前斜角筋と中斜角筋および第1肋骨に囲まれた斜角筋間隙や、肋鎖間隙における腕神経叢および鎖骨下動脈の絞扼などが関与しています。
胸郭出口症候群は神経型、血管型、混合型に分類され、上肢を使う動作、特に上肢を挙上位で作業する際には腕神経叢にストレスがかかり、上肢のしびれや痛みが増悪することがあります。ただし一時的に増悪しても安静により軽快する特徴があります。
胸郭出口症候群の評価には、アドソンテストやモーレイテストなどの整形外科テストが用いられます。診断は確立していないため、頚椎椎間板ヘルニア、頚椎症性神経根症、肘部管症候群、手根管症候群などとの鑑別が重要になります。
前斜角筋の強化トレーニングと総合的なアプローチ
前斜角筋のストレッチだけでなく、適切な強化トレーニングも重要です。基本的な筋力トレーニングとして、ベッド端で頭を軽く出し、小さな顎引きから頸部前屈で持ち上げる方法があります。この際、深頸屈筋も意識することがポイントです。
首の屈曲エクササイズでは、仰向けに寝て顎を胸に引き寄せる動作で前斜角筋を強化します。側屈エクササイズは立位や座位で頭を左右に倒す動作で中斜角筋および後斜角筋を鍛えることができます。手やタオルを使って頭に抵抗を加えながら首を動かす抵抗運動も効果的です。
ただし、痛み・めまい・しびれが少しでもある場合は中止し、頚椎症状がある症例では筋持久トレーニング(アイソメトリック)を優先すべきです。ヨガやピラティスのポーズや動作を通じて、斜角筋を含む首周りの筋肉を鍛える方法もあります。
セルフケアの観点では、首の横についている斜角筋のエリアを軽く摩るセルフマッサージも有効です。斜角筋ストレッチと合わせて行うことで、より効果が期待できます。デスクワークやスマートフォンの使用による不良姿勢で過緊張しやすいため、ストレートネックや肩こりの症状がある人にリリースを行うと効果的な場合が多いです。
総合的なアプローチとして、姿勢の改善、呼吸パターンの見直し、定期的なストレッチとマッサージ、適度な筋力トレーニングを組み合わせることが、前斜角筋の健康を維持し、首こりや肩こりを予防する上で重要です。
前斜角筋単独の機能だけでなく、周囲の多くの筋肉との関係や深さを考慮する必要があります。臨床では、周囲の組織をイメージしながら評価とアプローチを行うことが求められます。
日本整形外科学会の胸郭出口症候群に関する詳細な解説
胸郭出口症候群の診断と治療に関する医学論文(J-STAGE)