ファーマコゲノミクスとバイオマーカーの基礎
ファーマコゲノミクスの定義と意義
ファーマコゲノミクス(Pharmacogenomics: PGx)とは、ヒトゲノムのバリエーションが個人の薬物応答にどのように影響するかを研究する学問分野です。具体的には、ゲノム配列の変化、染色体の構造変化、エピジェネティックな変化、遺伝子発現プロファイルの変化などが薬物反応性に関与することを解明します。この技術により、薬物の効果や副作用を遺伝学的検査で事前に判別し、患者個々に最も適した個別化薬物療法が可能になります。
遺伝的要因が薬物反応性に影響を与える主要なメカニズムには、薬物動態への影響、薬物力学への影響、特異体質反応への影響、そして発病や重症度と特定の治療に対する反応への影響が挙げられます。薬物応答には著しい個人差があり、その差を規定する因子として肝機能、腎機能、年齢、性別などに加えて、DNA配列のわずかな違いである「遺伝子多型」が重要な役割を果たしていることが明らかになっています。
ある研究では、検査対象となった人の99%以上が、少なくとも1つの薬剤に対するリスクが高い遺伝型を持っていることが示されており、ファーマコゲノミクス検査の重要性が裏付けられています。米国食品医薬品局(FDA)が薬剤ラベルへの記載を承認している遺伝学的バイオマーカーは362個に達しており(2019年8月時点)、臨床現場での応用が進んでいます。
バイオマーカーの種類と医薬品開発での役割
バイオマーカーとは、「通常の生物学的過程、病理学的過程、もしくは治療的介入に対する薬理学的応答の指標として、客観的に測定され評価される特性」と定義されます。医薬品開発においては、探索研究段階では薬力学マーカーが用いられ、非臨床段階になると候補化合物の毒性をみる毒性マーカーも利用されるようになります。
参考)バイオマーカー測定|バイオアナリシスサービス|試験・サービス…
臨床試験の段階では、より多様なマーカーが活用されます。
参考)https://www.pmda.go.jp/files/000155707.pdf
- 診断マーカー:病気の存在を検出するために使用され、例えば前立腺特異抗原(PSA)レベルは前立腺がんの診断バイオマーカーとして機能します
- 予後マーカー:治療に関係なく、病気の経過や予後の可能性を示すもので、がんにおける特定のタンパク質の高レベルは不良な予後を示唆します
- 予測マーカー:特定の治療法に対する応答の可能性を示し、大腸がんにおけるKRAS変異は特定治療法に対する非応答を示唆する予測バイオマーカーです
- 薬力学マーカー:治療に対する生物学的応答を測定し、HIV治療におけるウイルス量の減少測定がこれに該当します
- 安全性マーカー:副作用の回避や低減に役立てられます
アストラゼネカ社の調査では、臨床第二相試験を始める際に薬剤の効果をモニタリングするマーカーがあった場合、成功確率が82%だったのに対し、なかった場合は29%にとどまっており、バイオマーカーの有用性が実証されています。過去10年間で、新薬開発におけるバイオマーカーの応用が着実に進展しており、医療用医薬品の添付文書の「効能・効果」や「用法・用量」にゲノムバイオマーカーに関する情報が掲載される新薬の品目数が増加傾向にあります。
参考)https://www.pmda.go.jp/files/000155861.pdf
ファーマコゲノミクス検査の臨床実装
ファーマコゲノミクス検査は、薬物代謝酵素や薬物トランスポータの遺伝子変異を解析することで、薬物の効果や副作用の予測を可能にし、Precision Medicine(精密医療)の実現に有効なツールとして期待されています。実際の臨床現場では、電子カルテシステムに連動したPGx検査データベースを活用した運用が始まっており、治療効果との関連性評価が行われています。
参考)KAKEN href=”https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-18K06782/” target=”_blank”>https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-18K06782/amp;mdash; 研究課題をさがす
特に抗血小板薬であるクロピドグレルと薬物代謝酵素CYP2C19の遺伝子多型の関係については、詳細な解析が進んでいます。CYP2C19で代謝活性化を受けるクロピドグレルに対して、遺伝子多型に基づいた適切な薬剤選択を行うことで、治療効果の向上や副作用発現率の低下が確認されています。
参考)KAKEN href=”https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K06665/” target=”_blank”>https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K06665/amp;mdash; 研究課題をさがす
FDAによるirinotecan(camptosar)の添付文書改訂事例について詳しく知りたい方は、こちらをご参照ください(医薬品開発におけるファーマコゲノミクスの現状と展望)
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/129/1/129_1_135/_pdf/-char/ja
PGx検査に基づいた個別化投与指針の構築により、治療効果の向上や副作用軽減という医学的なメリットに加え、投与量最適化による薬価負担の軽減や有害事象制御による医療費の軽減という薬剤経済学的なメリットも期待されています。遺伝子多型に基づく薬剤選択・投与量調節を行うPGx検査は、個々の患者に合わせた最適な治療を提供するための基盤となっています。
コンパニオン診断とファーマコゲノミクスの統合
コンパニオン診断は、ゲノム医療の発展に伴い分子標的薬の開発が進んだことで活用が広がった技術です。具体的には、コンパニオン診断薬を使用して患者の標的分子の発現量、関連遺伝子変異、遺伝子多型などのバイオマーカーを調べ、検討している薬剤の効果が期待できるかどうかを判断します。
参考)コンパニオン診断とは?コンパニオン診断薬や今後の展望も解説 …
標的分子が明確で、臨床試験で患者層別マーカーとして利用できる場合、その患者層別マーカーを測定するための診断薬は「コンパニオン診断薬」として承認されます。分子標的薬とセットで行われるコンパニオン診断は2011年ごろから普及しはじめ、遺伝子検査で対象となる遺伝子に変化が見つかった場合には薬剤の効果が期待でき、変化が見つからなければ効果は期待できないと判断されます。
参考)コンパニオン診断の普及とがん遺伝子パネル検査の登場|おしえて…
分子標的薬は遺伝子の異常に適合した薬剤であり、がん細胞に対して選択的に作用する治療薬として、従来の抗がん剤とは異なり正常な細胞への作用を避けることが可能です。しかし、同じ疾患であっても患者によって遺伝子変異のパターンが異なるため、その治療薬を投与して効果が期待できるかどうか、有用性や安全性を確認するためには遺伝子変異の有無を調べる必要があります。
ファーマコゲノミクス・バイオマーカー相談制度の詳細については、PMDAの公式ページをご確認ください
PMDAでは、個別品目とは関係しない医薬品及び医療機器開発におけるゲノム薬理、バイオマーカーの利用に関する一般的な考え方、バイオマーカー等に係るデータの適格性の評価や解釈について指導及び助言を行うファーマコゲノミクス・バイオマーカー相談の制度を設けており、適格性評価や試験計画要点確認などの相談区分が用意されています。
参考)新医薬品のファーマコゲノミクス・バイオマーカー相談結果の公表…
ファーマコゲノミクスがもたらす医療経済的効果
ファーマコゲノミクス技術を活用することで、医療費削減という経済的メリットも実現できます。適切な薬剤選択により、効果が期待できない治療を避けることができ、時間の節約だけでなく、患者を不必要な治療から救うことにつながります。
参考)疾患バイオマーカー: 早期発見と個別化医療によるヘルスケアの…
具体的な経済的メリットとして、以下の点が挙げられます。
- 最適な治療効果を早急に得られることによる治療効率の向上
- 過剰投与防止に基づく有害事象発現率の低下による患者のQuality of Life(QOL)の改善
- 投与量の最適化による薬価負担の軽減
- 有害事象発現率の低減による医療費の軽減
がん治療の分野では、バイオマーカーのようなHER2遺伝子が乳がんにおける標的治療であるハーセプチンの成功の可能性を予測することで、適切な患者選択が可能になっています。効果予測マーカーを調べるメリットは、治療効果が得られる可能性が高いとわかっている人だけがその治療を受けられることであり、最も効果の高い最適な治療の選択につながります。
参考)https://www.cancernet.jp/upload/w_baio161214.pdf
バイオマーカーは精密医療の基盤であり、病気を検出し、個人に合わせた独自の方法で治療することを可能にする技術として、医療経済面でも大きな社会的意義を持っています。投薬の安全性と有効性の向上、および医療費の削減を通じて、個人および医療提供者両方にとってより良い将来の成果につながる可能性が期待されています。
がんゲノムネットのファーマコゲノミクスとバイオマーカーに関する教育動画はこちら
参考)https://www.cancergenomenet.jp/news/240130/