エチルベンゼンと特定化学物質
エチルベンゼンの基本的性質と用途
エチルベンゼンは化学式C₈H₁₀で表される無色の液体で、分子量106.17、沸点136℃、蒸気圧0.9kPaの有機溶剤です。工業用キシレンの成分として含まれており、スチレン単量体の中間原料、有機合成、溶剤、希釈剤として広く使用されています。特に塗料やシンナーにはキシレンとともに必ず含まれており、溶剤系塗料を使用する塗装業務では日常的に取り扱われる物質です。
参考)塗装業者のみなさまへ「エチルベンゼンを使用する場合の健康障害…
エチルベンゼンはエチレンとベンゼンを混合して触媒によって処理することで生産される炭化水素であり、高濃度になると人体に有害な影響を及ぼします。気道の炎症や結膜炎などの症状が報告されており、取り扱いには十分な注意が必要です。一般的なキシレンが含まれている塗料やシンナーには必ずエチルベンゼンが含有されているため、これまで有機溶剤中毒予防規則の対象となっていたキシレンやトルエンと同様の管理が求められるようになりました。
参考)https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei48/dl/anzeneisei48-09-2.pdf
エチルベンゼンの健康障害と有害性
エチルベンゼンの人体への影響として、まず発がん性が重要な懸念事項となっています。国際がん研究機関(IARC)は、エチルベンゼンを「ヒトに対する発がん性が疑われる」区分2Bに分類しており、長期的な曝露によるリスクが指摘されています。また、動物実験では胎児への影響が確認されており、生殖毒性についてもGHS区分1Bに該当する物質です。
参考)エチルベンゼンに発がん性はある?起こりうる症状や対処法を解説…
急性的な健康障害としては、中枢神経系への影響が知られており、頭痛や倦怠感などの症状が現れることがあります。さらに、肝機能障害や腎機能障害のリスクも報告されており、生殖能または胎児への悪影響のおそれも指摘されています。吸入によって気道に侵入すると生命に危険のおそれがあり、眼刺激や呼吸器への刺激、眠気やめまいの症状を引き起こす可能性があります。長期にわたる反復曝露による聴覚器などの臓器障害のおそれもあるため、適切な防護対策が不可欠です。
参考)http://www.nichizou.or.jp/pdf/ethylbenzene.pdf
エチルベンゼン塗装業務における作業環境測定
特定化学物質障害予防規則では、エチルベンゼンを1%以上含有する塗料やシンナーを取り扱う塗装業務について、6ヶ月以内ごとに1回の作業環境測定が義務付けられています。この測定は、屋内作業場や船体ブロックの中など、通気が不十分な環境での塗装作業が対象となります。測定結果は30年間の保管が必要であり、作業環境の評価と管理区分の決定を適切に行わなければなりません。
エチルベンゼンの管理濃度は20ppmと定められており、この値を下回るように作業環境を管理・制御する必要があります。日本産業衛生学会における許容濃度も20ppm(87 mg/m³)、米国産業衛生専門家会議(ACGIH)のTLV-TWA(時間加重平均値)も20ppmが公表されており、国際的にも同様の基準が採用されています。なお、エチルベンゼンを含む混合有機溶剤については、相加式による評価が必要となるため、キシレンの測定時には併せてエチルベンゼンの測定を行い評価することが望まれます。
興味深いことに、エチルベンゼン塗装業務以外の試験研究や各種分析等の用途でエチルベンゼンを取り扱う業務の場合は、塗装業務ではないため作業環境測定は義務ではありません。このように、特定化学物質障害予防規則では業務の種類によって規制の適用範囲が異なるため、自社の業務が規制対象となるかどうか正確に判断することが重要です。
参考)https://www.eic.or.jp/qa/?act=viewamp;serial=41857
エチルベンゼンに係る特殊健康診断の実施
エチルベンゼンを取り扱う業務に常時従事する労働者に対しては、雇入れまたは当該業務への配置替えの際および6ヶ月以内ごとに1回、定期的に特殊健康診断を実施しなければなりません。この健康診断は、エチルベンゼンを1%以上含有する製剤その他の物を取り扱う場合に義務付けられており、特別有機溶剤等として規制されています。健康診断の結果は労働者に通知し、特定化学物質健康診断個人票として30年間保存する必要があります。
参考)労働衛生コラムNo.5 『特別有機溶剤の健康診断』 | 岡山…
特殊健康診断の実施に加えて、過去にエチルベンゼンを取り扱う業務に従事させたことのある労働者についても、エチルベンゼン特殊健康診断を実施する義務があります。また、健康診断結果報告書を所轄労働基準監督署に提出しなければならず、これらの記録管理は事業者にとって重要な責務となっています。有機溶剤等健康診断個人票の保存期間は5年間ですが、特定化学物質としてのエチルベンゼンに関する記録は30年間の保存が求められる点に注意が必要です。
参考)https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei48/dl/anzeneisei48-07.pdf
エチルベンゼン規制における作業主任者と表示義務
エチルベンゼン塗装業務に係る作業主任者は、有機溶剤として使用される実態に応じた適切な作業の管理を行わせるため、有機溶剤作業主任者技能講習修了者から選任することが定められています。作業主任者の役割は、作業場の換気設備の点検や保護具の使用状況の監督など、労働者の健康障害を防止するための重要な職務を担っています。エチルベンゼンを含む塗料等を使用する塗装作業場を通気不十分な屋内等で行うと、特に高い濃度に曝露される危険があるため、適切な換気管理が不可欠です。
参考)環境配慮型塗料とは?ーエチルベンゼンー – ミドリ商会
容器や包装への表示についても厳格な規制があり、エチルベンゼンまたはこれを重量の0.1%以上含有する製剤その他の物を譲渡・提供する場合は、容器・包装に名称、成分、人体に及ぼす影響、貯蔵または取扱い上の注意、表示者の氏名・住所・電話番号、注意喚起語、安定性及び反応性、標章を表示しなければなりません。この表示義務は平成25年1月1日から義務化されており、既存の物については平成25年6月30日までの猶予期間が設けられました。安全データシート(SDS)により含有の有無と含有率を確認できるため、取り扱い前に必ず確認することが重要です。
エチルベンゼン規制下での職場環境管理の実務
特定化学物質障害予防規則に基づき、常時従事する労働者について1カ月以内ごとに氏名、作業の概要と従事期間等を記録し、30年間保存しなければなりません。この作業記録の管理は、将来的に健康障害が発生した場合の原因究明や労災認定の際に重要な証拠となるため、正確かつ継続的な記録が求められます。作業場には取扱い上の注意事項等を掲示し、エチルベンゼンの名称や使用すべき保護具について明示する必要があります。
職場環境の整備として、汚染されたぼろ(ウェス等)や紙くず等をふた付きの不浸透性容器に納めておく管理が必要です。また、設備の改造等の作業時の措置、立入禁止措置、休憩室や洗浄設備の設置、喫煙・飲食の禁止、容器等への表示と一定の場所での保管など、多岐にわたる対策が義務付けられています。事業を廃止する場合には、測定・健診・作業の記録等を所轄労働基準監督署へ報告しなければならず、長期的な記録管理体制の構築が不可欠です。
特に室内環境においては、令和7年1月17日にエチルベンゼンの室内濃度指針値が改定され、従来の3,800μg/㎥(0.88ppm)から約1/10の370μg/㎥(0.085ppm)へと大幅に引き下げられました。この改定により、室内での塗装や接着作業によるエチルベンゼンの発生については、これまで以上に厳格な管理が求められるようになっています。塗料、接着剤やシンナーなどの溶剤系資材を室内に保管する場合、揮発した成分が壁や床などに吸着し、資材を移動した後も高濃度状態が続く可能性があるため、保管場所の選定にも注意が必要です。
参考)エチルベンゼンの室内濃度指針値が改定されました!|環境|株式…
エチルベンゼンフリー製品への転換と今後の展望
特定化学物質障害予防規則の改正に伴い、エチルベンゼンを0.1%未満とした特化則非該当製品の開発が進んでいます。エチルベンゼンを1%以上含有すると規制対象となり、作業環境測定、特殊健康診断、作業記録の保管などの義務が生じるため、製造現場では30年間にわたる記録管理の負担が大きな課題となっています。こうした状況を受けて、溶剤に含まれるエチルベンゼンを0.1%未満とした製品が順次発売されており、特化則非該当・エチルベンゼンフリータイプの塗料や溶剤が市場に登場しています。
厚生労働省は労働者の健康障害防止のための措置として、製造現場に対して周知を図っており、今後も規制の遵守状況が厳しく監視されると予想されます。エチルベンゼンは特化則の対象物質ですが、規制内容により特化則が適用される場合と有機則が準用される場合があるため、取り扱う業務の内容に応じて適切な法令を確認することが重要です。事業者としては、エチルベンゼンフリー製品への転換を検討するとともに、現行の規制下においては適切な作業環境管理と健康管理体制の構築が求められています。
厚生労働省によるエチルベンゼンの健康障害防止対策に関する詳細な情報と規制内容の解説資料
三重労働局による塗装業者向けのエチルベンゼン取り扱いに関する実務的なガイドライン