WHO 手指衛生 多角的戦略と実践方法
医療関連感染(Healthcare-associated infection: HAI)は、世界中の医療施設において患者と医療システムに深刻な影響を与える重大な問題です。WHOの手指衛生ガイドラインは、この問題に対処するための基本的かつ効果的な戦略として国際的に認められています。
手指衛生の重要性は19世紀半ばにイグナーツ・ゼンメルヴァイスによって初めて科学的に証明されました。彼は産科医として勤務していた病院で、医師が手を消毒してから分娩介助を行うことを義務付けたところ、産褥熱による母体死亡率が約20%から約2%へと劇的に減少したことを報告しました。この歴史的発見から170年以上が経過した現在でも、手指衛生は医療関連感染予防の最も基本的かつ重要な対策として位置づけられています。
WHO 手指衛生ガイドラインの概要と構成
WHOは2009年に「医療における手指衛生ガイドライン」を発表しました。このガイドラインは、感染管理と手指衛生の国際的な専門家で構成されるチームによって開発され、1000編以上の文献レビューと議論に基づいています。2006年にガイドライン草案が発表された後、パイロットテストを通じて介入の実現可能性、妥当性、信頼性、費用対効果についての検討が行われ、修正を経て2009年に最終版が公開されました。
ガイドラインは主に6つのパートで構成されています。
- 手指衛生に関する科学的データのレビュー
- 合意された推奨策
- 実施戦略と実施ツール
- 評価と影響
- 患者の参加
- 将来の研究課題
このガイドラインの目的は、医療従事者、病院管理者、行政担当者に対して、医療における手指衛生に関するエビデンスのレビューと、手指衛生の実践を改善し患者と医療従事者への病原体伝播を減少するための明確な推奨を提供することにあります。
WHO 手指衛生の5つのタイミングと実践方法
WHOガイドラインでは、医療従事者が手指衛生を行うべき重要な5つのタイミング(Five Moments)を定義しています。これは日本では「5つのタイミング」と訳されており、医療現場での手指衛生のポイントを分かりやすくまとめたものです。
- 患者に触れる前
- 清潔/無菌操作の前
- 体液曝露リスクの後
- 患者に触れた後
- 患者の周辺に触れた後
これらのタイミングは、医療従事者が日常的なケアの中で手指衛生を適切に実践するための明確な指針となります。特に注目すべき点は、従来の「1処置1手洗い」という考え方から、より患者中心のアプローチへと変化していることです。
手指衛生の方法としては、アルコールベースの手指消毒剤(ハンドラブ)の使用が推奨されています。アルコール手指消毒剤は、手洗いと比較して以下の利点があります。
- より短時間で効果的に手指を消毒できる
- 手荒れが少ない
- 水や手洗い設備が不要で、ベッドサイドでも実施可能
- 多忙な医療現場での遵守率向上につながる
ただし、手が目に見えて汚れている場合や、芽胞形成菌(クロストリジオイデス・ディフィシルなど)による感染が疑われる場合には、石けんと流水による手洗いが必要です。
WHO 手指衛生多角的戦略の日本での実践と課題
日本においても、WHOの手指衛生多角的戦略の実践に向けた取り組みが進んでいます。「Train the Trainers in Hand Hygiene ― Japan」グループなどの活動を通じて、WHOガイドラインの普及と実践が推進されています。
日本の医療現場における手指衛生の変遷を見ると、WHOガイドライン発刊以前は「衛生学的手洗い」と表現され、「1処置1手洗い」が推奨されていました。2009年のWHOガイドライン発刊以降、「5つのタイミング」でのアルコール手指消毒剤による手指衛生が国内でも広く浸透しました。
この過程で、従来からの手洗い手順と、WHOガイドラインの「手指消毒手順」とを組み合わせた「アルコール擦式手指消毒手順」が開発・普及され、広く実践されるようになりました。しかし、「5つのタイミング」以外の「手指衛生を改善するための多角的戦略」の実践については、まだ十分に浸透していない面もあります。
日本の医療現場における手指衛生の課題としては、以下のような点が挙げられます。
- 手指衛生遵守率の継続的なモニタリングと改善
- 医療施設の特性に合わせた手指衛生戦略の「Adapt to Adopt(適応させて採用する)」の実践
- 医療従事者の職種間での手指衛生に対する認識の差
- 患者参加型の手指衛生推進活動の展開
これらの課題に対応するためには、単に手指衛生の方法や知識を普及するだけでなく、組織的な取り組みとして手指衛生文化を醸成していくことが重要です。
WHO 手指衛生の日と世界的なキャンペーン活動
WHOでは、毎年5月5日を「世界手指衛生の日(World Hand Hygiene Day)」として定め、世界中の医療施設に向けて手指衛生の重要性を啓発するグローバルキャンペーンを展開しています。5月5日は両手の5本指を表し、「5」月「5」日という日付に由来しています。
このキャンペーンは「SAVE LIVES: Clean Your Hands(命を救う:あなたの手指衛生)」というスローガンのもと、医療従事者が適切なタイミングで正しい手指衛生を行うこと、手指衛生の遵守率を改善させることで医療関連感染を防ぎ、患者安全を最優先させることを目的としています。
毎年、特定のテーマに焦点を当てたキャンペーンが展開され、ポスターやソーシャルメディアを活用した啓発活動、教育資材の提供、手指衛生の遵守率向上のための取り組み事例の共有などが行われています。
日本でも、この世界手指衛生の日に合わせて様々な啓発活動やセミナーが開催されています。2025年5月16日には「WHO世界手指衛生の日を祝おう!オンラインセミナー」が計画されており、全国の医療施設の手指衛生改善に取り組む仲間とのつながりを促進する機会となっています。
2025年WHO世界手指衛生の日オンラインセミナーの詳細情報
WHO 手指衛生と国際協力:日本企業の取り組み事例
手指衛生の重要性は国境を越えて認識されており、日本企業も国際的な手指衛生推進活動に貢献しています。特筆すべき事例として、サラヤ株式会社のウガンダでの活動が挙げられます。
サラヤ株式会社は、WHOの患者安全のための民間組織(POPS)の一員として、国際機関や学術機関と連携し、ウガンダでアルコールベースのハンドラブの現地生産を推進しています。2010年にユニセフと共同で手指衛生プロジェクトを開始し、手指衛生関連商品へのアクセスの悪さに対応するため現地企業サラヤ・ウガンダを設立しました。
現在、サラヤ・ウガンダは地元の製糖会社と共同で、地元の農園で栽培されたサトウキビから作られたエタノールを使用し、アルコールベースの手指消毒剤を製造しています。この取り組みは、「世界手指衛生の日」のWHOのニュースで成功事例のトップに取り上げられました。
アルコールベースのハンドラブを現地で生産することは、地元の人々の参加を促し、手指衛生のコンプライアンスを向上させ、医療施設に確実に供給するための効果的な方法となっています。この製品は、ウガンダおよび東アフリカで初めて現地で製造・販売されたアルコールベースのハンドラブとして登録され、手指衛生の向上や医療関連感染の減少につながっていることが実証されています。
このような国際協力の事例は、グローバルな視点での手指衛生の重要性と、持続可能な形での実践方法を示しています。先進国と途上国が協力して手指衛生を推進することで、世界全体の医療関連感染予防に貢献することができます。
手指衛生は、医療現場における最も基本的かつ効果的な感染予防策です。WHOのガイドラインと多角的戦略に基づいた取り組みを実践することで、医療関連感染を減少させ、患者と医療従事者の安全を守ることができます。日本の医療施設においても、WHOの手指衛生戦略を適切に取り入れ、継続的な改善活動を行うことが重要です。
手指衛生の実践は単なる手技ではなく、患者安全を守るための文化として根付かせていくことが求められています。一人ひとりの医療従事者が「あなたの手指衛生が患者の命を救う」という意識を持ち、日常的なケアの中で適切なタイミングと方法で手指衛生を実践することが、医療関連感染予防の第一歩となります。
医療施設の管理者や感染対策チームは、WHOの多角的戦略を参考に、自施設の特性に合わせた手指衛生推進プログラムを構築し、継続的なモニタリングと改善活動を行うことが重要です。また、患者や家族も含めた手指衛生の啓発活動を展開することで、医療施設全体の感染予防文化を醸成していくことができるでしょう。