HER2低発現乳がんの定義と治療
HER2低発現乳がんの定義と分類方法
HER2低発現乳がんとは、HERに対する免疫組織化学染色(IHC)で1+、または、IHC2+かつin situ hybridization(ISH)陰性で定義される乳がんです。これまでのHER2陰性乳がんの約60〜80%がHER2低発現乳がんに該当し、乳がん全体では約50〜60%を占めています。
従来、HER2タンパク質の発現量が少ない腫瘍は、HER2を標的とする既存の薬剤(トラスツズマブやペルツズマブなど)が奏効しないという理由で、HER2陰性に分類されてきました。そのため、これらの患者さんはHER2陰性乳がんとして治療が行われてきました。
HER2低発現の判定には、病理医による正確な評価が重要です。研究によると、当初HER2陰性(IHC 0)と診断された症例の約30%以上が、再検査によってHER2低発現と再分類されることがあります。このことから、HER2陰性と診断された患者さんでも、新たな治療選択肢の可能性を考慮して再評価が推奨される場合があります。
HER2低発現乳がんとHER2ゼロ乳がんの生物学的特徴の比較
HER2低発現乳がんが、HER2がまったく発現していないHER2ゼロ乳がんと生物学的に異なるサブタイプなのかという疑問が研究者の間で議論されてきました。
ダナファーバーがん研究所による調査では、5,000人以上の患者データを解析した結果、HER2低発現乳がんとHER2ゼロ乳がんの間には、治療への反応および長期間の転帰において有意な差がないことが示されました。この研究結果は、HER2低発現乳がんを明確な生物学的サブタイプとして解釈することを支持するものではありませんでした。
一方で、42の研究を含むメタ解析では、早期乳がんにおいて、HER2低発現はHER2ゼロと比較して、無病生存期間(DFS)および全生存期間(OS)の改善と有意に関連していることが示されています。特に、OSの改善はホルモン受容体陽性と陰性の両集団で観察されましたが、DFSの改善はホルモン受容体陽性でのみ観察されました。
興味深いことに、エストロゲン受容体(ER)レベルとHER2低発現の割合は正の相関を示し、低ER患者はHER2ゼロが多く、高ER患者はHER2低発現が多いことが報告されています。このことから、HER2低発現例の予後解析にはERレベルが交絡因子として関連している可能性が指摘されています。
HER2低発現乳がんに対するトラスツズマブデルクステカンの治療効果
2023年4月、DESTINY-Breast04試験の結果に基づき、トラスツズマブデルクステカン(商品名:エンハーツ)の適応が「化学療法歴のあるHER2低発現の手術不能または再発乳がん」に拡大されました。
DESTINY-Breast04試験は、転移・再発病変に対して1または2レジメンの化学療法歴を有するHER2低発現転移乳がん557例を対象に、トラスツズマブデルクステカン(T-DXd)と主治医選択化学療法を比較した第Ⅲ相試験です。
この試験の結果、ホルモン受容体陽性例の無増悪生存期間(PFS)は、主治医選択化学療法群の5.4か月に対しT-DXd群が10.1か月(ハザード比0.51)と統計学的に有意な延長が認められました。全生存期間(OS)についても、ホルモン受容体陽性例で主治医選択化学療法群の17.5か月に対しT-DXd群が23.9か月(ハザード比0.64)と有意な延長が示されました。
奏効率についても、ホルモン受容体陽性例では主治医選択化学療法群の16.3%に対しT-DXd群は52.6%、ホルモン受容体陰性例でも主治医選択化学療法群の16.7%に対しT-DXd群は50.0%と高い効果が認められました。
これらの結果から、日本乳癌学会のガイドラインでは、化学療法歴のあるHER2低発現の転移・再発乳がんに対してトラスツズマブデルクステカンの投与が強く推奨されています。
HER2低発現乳がんの診断における課題と精度向上の取り組み
HER2低発現乳がんの診断には、いくつかの課題があります。まず、HER2の発現レベルの評価には病理医の主観的判断が含まれるため、評価者間で結果が異なる可能性があります。
研究によると、当初のHER2ステータスと再検査したHER2ステータスの一致率は約81.3%(κ=0.583)で、低発現(87.5%)がIHC 0(69.9%)より高いことが報告されています。このことは、特にIHC 0と判定された症例の再評価の重要性を示唆しています。
診断精度を向上させるための取り組みとして、標準化されたトレーニングプログラムの開発や、コンパニオン診断薬の使用が推進されています。日本では、トラスツズマブデルクステカンの適応決定には、コンパニオン診断薬によるHER2低発現の診断が必須となっています。
また、HER2の発現状況は、生検時期や腫瘍の部位によって変動する可能性があることも報告されています。特にトリプルネガティブ乳がんでは、HER2発現状況が生検時期によって変動することが示唆されており、治療方針の決定には最新の生検結果を参考にすることが重要です。
HER2低発現乳がんの将来展望と臨床試験の動向
HER2低発現乳がんの治療は、トラスツズマブデルクステカンの登場により大きく変わりつつあります。現在、さらなる治療効果の向上を目指して、様々な臨床試験が進行中です。
特に注目されているのは、トラスツズマブデルクステカンを早期乳がんに適用する試験や、他の薬剤との併用療法の有効性を検討する試験です。これらの研究により、HER2低発現乳がんの治療選択肢がさらに広がる可能性があります。
また、HER2低発現の生物学的意義についても研究が進んでいます。HER2陽性乳がんでは、HER2の過剰発現ががん増殖を促進することが知られていますが、HER2低発現腫瘍におけるHER2タンパク質の役割はまだ完全には解明されていません。
さらに、HER2低発現乳がんの中でも、ホルモン受容体の状態(陽性・陰性)によって治療効果や予後が異なる可能性が示唆されています。今後は、より詳細な分子生物学的特徴に基づいた個別化治療の開発が期待されています。
HER2低発現乳がんの概念は比較的新しく、今後も定義や治療アプローチが進化していく可能性があります。患者さんにとっては、最新の診断技術と治療法の恩恵を受けるために、専門医との密接な連携が重要となるでしょう。
最近の研究では、HER2低発現乳がんの中でも、特定の遺伝子変異パターンや免疫微小環境の特徴によって、トラスツズマブデルクステカンへの反応性が異なる可能性も示唆されています。このような生物学的マーカーの探索は、より効果的な治療選択のための重要な研究領域となっています。
また、HER2低発現乳がんの患者さんにおいては、治療効果を最大化し副作用を最小限に抑えるための最適な投与スケジュールや用量調整についても研究が進められています。特に、トラスツズマブデルクステカンの主な副作用である間質性肺疾患のリスク因子の特定と管理方法の確立は、安全な治療提供のために重要な課題です。
間質性肺疾患は、トラスツズマブデルクステカン治療を受けた患者の約12.1%に発生し、そのうち0.8%が致命的な転帰をたどったことが報告されています。そのため、治療開始前の肺機能評価や定期的なモニタリングが推奨されています。
HER2低発現乳がんの概念の確立と新たな治療法の開発は、乳がん治療の個別化に向けた重要な一歩です。今後も研究の進展により、より多くの患者さんが効果的な治療の恩恵を受けられるようになることが期待されます。