母乳とロキソニン
薬理学的視点で見るロキソニンの母乳への移行率
医療現場において、授乳婦への薬物投与は常に慎重な判断が求められますが、中でも鎮痛薬であるロキソプロフェン(ロキソニン)の処方頻度は群を抜いています。多くの母親が「痛み止めを飲みたいが、母乳に影響が出るのではないか」という不安を抱えています。医療従事者として、まず理解すべきはロキソニンの「母乳への移行率(M/P比:Milk/Plasma ratio)」に関する正確な薬理学的データです。
ロキソプロフェンは、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)に分類されますが、その母乳移行性は極めて低いことが知られています。具体的には、母体摂取量の0.65%未満(重量ベース)しか母乳中に移行しないというデータがあり、これは乳児薬物摂取量(Relative Infant Dose: RID)の観点からも、安全性の一つの指標となる「10%以下」を大幅に下回る数値です。なぜこれほど移行率が低いのか、その理由は薬物の物理化学的性質にあります。
まず、ロキソニンは弱酸性の薬剤です。母乳のpH(約7.0-7.2)は血漿のpH(約7.4)よりもやや酸性度が高いため、一般的に塩基性薬物はイオン・トラップ現象によって母乳中に濃縮されやすい傾向にありますが、酸性薬物であるロキソニンはこのメカニズムによる濃縮を受けにくい性質を持っています。さらに、分子量が比較的小さいにもかかわらず、脂溶性やイオン化の状態が母乳への受動拡散を制限する方向に働いています。
また、多くの文献において、ロキソニンの母乳中濃度は検出限界以下、あるいは臨床的に無視できるレベルであることが報告されています。これは、単に「経験的に大丈夫」というレベルではなく、薬物動態学的な裏付けがある事実です。しかし、患者指導の際には「絶対にゼロ」とは言い切れないため、科学的な数値を根拠に「赤ちゃんに影響が出る量ではない」ことを伝える技術が必要です。例えば、「お母さんが飲んだ量の100分の1も届かない」といった具体的なイメージ共有が、母親の不安払拭には効果的です。
授乳中に安全に使用できると考えられる薬 – 国立成育医療研究センター
授乳中のロキソニン服用における最高血中濃度到達時間と授乳間隔
次に、実臨床で最も頻繁に質問される「薬を飲んでから何時間あければ授乳してよいか」という点について深掘りします。これに答えるためには、ロキソニンの最高血中濃度到達時間(Tmax)と半減期(T1/2)を正確に把握しておく必要があります。
経口投与されたロキソプロフェンは、消化管から速やかに吸収され、そのプロドラッグ自体は服用後約30分〜50分程度で最高血中濃度に達します。その後、肝臓で活性代謝物(trans-OH体)に変換され薬効を発揮しますが、この活性代謝物の血中濃度ピークも服用後約1時間以内です。そして、ロキソニンの半減期は約1時間15分(75分)と、他のNSAIDsと比較しても非常に短いのが特徴です。
この薬物動態から考えると、服用直後に授乳を行ったとしても、その時点ではまだ血中濃度(および母乳中濃度)はピークに達していません。逆に、服用から1〜2時間後が血中濃度のピークとなりますが、前述の通りそもそも母乳への移行量が極めて少ないため、ピーク時であっても乳児に有害事象を引き起こすレベルには達しないと考えられています。
一部の指導では「服用後4〜6時間は授乳を避ける」や「搾乳して捨てる」といった方法が提案されることがありますが、ロキソニンの半減期の短さと移行率の低さを考慮すれば、医学的にはそこまで厳密な制限は不要というのが現在の標準的な見解です。むしろ、痛みを我慢して授乳を続けることによる母体のストレス(カテコールアミン放出による射乳反射の抑制)の方が、母乳育児継続においてはリスクとなり得ます。
あえて「最も安全なタイミング」を指導するのであれば、「授乳直後(または授乳中)に服用する」のが合理的です。これにより、次回の授乳(通常2〜3時間後)には、母体の血中濃度はすでにピークを過ぎて下降局面に入っており、数回の半減期を経ているため、理論上のリスクをさらに低減させることが可能です。このように、「時間を空ける」ことそのものを目的化するのではなく、母親の生活リズムの中で無理なく服用できるタイミングを提案することが、コンプライアンスの向上につながります。
添付文書の注意書きと国立成育医療研究センターの安全性情報の乖離
医療従事者がジレンマを感じる最大の要因は、製薬会社が発行する添付文書と、国立成育医療研究センターや海外の授乳ガイドライン(Hale’s Medications and Mothers’ Milkなど)との間に存在する記載の乖離です。ロキソニンの添付文書には、長らく「授乳中の婦人には本剤投与中は授乳を避けさせること」といった旨の記載があります。この記載を見た薬剤師や看護師が、マニュアル通りに「授乳中止」を指導してしまい、結果として母乳育児が中断されるケースは後を絶ちません。
添付文書の記載は、発売当時の動物実験(ラット)における乳汁移行データや、ヒトでの臨床試験データが限定的であったことを背景に、企業としての製造物責任(PL法)の観点から最大限の安全策として記載されている側面が否めません。ラットとヒトでは胎盤構造や乳腺への移行メカニズムが異なるため、動物実験の結果をそのままヒトに外挿することには慎重であるべきです。
一方で、日本の周産期医療の拠点である国立成育医療研究センターの「授乳と薬の情報」データベースでは、ロキソプロフェンは「授乳中に安全に使用できると考えられる薬」としてリストアップされています。また、米国小児科学会(AAP)や世界保健機関(WHO)の基準に準拠した多くの国際的なデータベースでも、ロキソプロフェン(および同系統のイブプロフェンなど)は授乳適格性あり(Compatible)と分類されています。
この情報の非対称性を埋めるのが、現場の医療従事者の役割です。患者に対しては、「説明書(添付文書)には念のため避けるように書いてありますが、産婦人科や小児科の専門的なガイドラインでは、使用しても赤ちゃんに問題がないことがわかっています」と、情報の出典を明確にした上で説明する必要があります。特に、帝王切開後の疼痛管理や乳腺炎の治療において、ロキソニンは第一選択薬の一つとなります。添付文書の記述を絶対視するあまり、必要な鎮痛が行われないことは、QOLの低下のみならず、母子の愛着形成や育児動作の妨げにもなりかねません。
重要なのは、「添付文書が間違っている」と否定するのではなく、「添付文書は法的・保身的な側面が強く、最新の臨床エビデンスとは目的が異なる文書である」というコンテキストを理解し、リスクとベネフィットのバランスを専門家として評価することです。
母乳への移行を阻止するロキソニンの高い蛋白結合率
ロキソニンがなぜ母乳中にほとんど移行しないのか、そのメカニズムをさらに専門的に掘り下げるキーワードが「蛋白結合率」です。薬物が血液中から母乳(乳汁)へ移行するためには、血管壁や乳腺上皮細胞を通過する必要がありますが、通過できるのは血漿タンパクと結合していない「遊離型(フリー体)」の薬物のみです。
ロキソプロフェンの血漿蛋白結合率は約97%〜99%と非常に高い値を示します。これは、血液中に存在するロキソプロフェン分子のほとんどがアルブミンなどのタンパク質と結合しており、自由に組織間を移動できる遊離型はわずか1〜3%程度しか存在しないことを意味します。母乳中へ移行しようとする薬物の分母(遊離型)がそもそも極小であるため、結果として母乳中に出現する薬物量も微々たるものになります。
比較対象として、向精神薬などの中には蛋白結合率が低く、脂溶性が高いために母乳へ移行しやすい薬剤もありますが、NSAIDsの多くは高い蛋白結合率を有しています。その中でもロキソプロフェンは、体内で速やかに代謝され、尿中へ排泄されるプロセスも早いため、母体内に長時間滞留して蓄積し、徐々に母乳へ漏れ出すといったリスクも低い薬剤です。
また、母乳中には血漿ほど多くのタンパク質が含まれていません。したがって、仮に少量の遊離型薬物が母乳中に移行したとしても、そこでタンパク質と結合して「母乳中に留まる(トラップされる)」確率は低くなります。しかし、平衡状態を考えると、血漿側の強力なタンパク結合力が「磁石」のように薬物を血液側に引き留めておく役割を果たしているとイメージすれば分かりやすいでしょう。
この「高い蛋白結合率」というファクターは、授乳中の薬剤安全性を評価する上で、半減期と並んで極めて重要な指標です。医師や薬剤師が処方を検討する際、単に「NSAIDsだから」と一括りにするのではなく、各薬剤の蛋白結合率を確認することで、より科学的根拠に基づいた薬剤選択が可能になります。ロキソニンはこの点において、授乳婦に対して非常に有利な薬物動態プロファイルを持っていると言えます。
乳児の肝腎機能から考察する微量ロキソニンの代謝と排泄
最後に、視点を「母親からの移行」から「乳児による処理能力」へと移し、検索上位の記事ではあまり触れられていない独自視点で解説します。仮に、微量のロキソニンが母乳を介して乳児の体内に入った場合、乳児(特に新生児)の身体はそれをどう処理するのでしょうか。
新生児、特に早産児や低出生体重児においては、肝臓の薬物代謝酵素(CYPなど)やグルクロン酸抱合能力、そして腎臓の糸球体ろ過量(GFR)が成人に比べて未熟です。ロキソプロフェンは肝臓で代謝され、腎臓から排泄される薬剤です。したがって、理論的には「大人が飲む量に比べて微量だから大丈夫」という単純な比例計算だけでなく、乳児側のクリアランス(排泄能力)の低さを考慮する必要があります。
しかし、ここで重要になるのが、ロキソプロフェンの活性代謝物への変換プロセスです。ロキソプロフェンはプロドラッグであり、体内で代謝を受けて初めて強力な抗炎症作用を持つtrans-OH体に変換されます。乳児が母乳から摂取するのは、主に未変化体と微量の代謝物です。乳児の未熟な肝機能では、プロドラッグを活性体に変換する効率も低い可能性があり、これがパラドキシカルに「薬理作用の発現を抑える」方向に働く可能性も示唆されます(ただし、NSAIDsの直接的な腎毒性については留意が必要です)。
また、新生児動脈管開存症(PDA)の治療において、同じNSAIDsであるインドメタシンやイブプロフェンが新生児に対して直接投与されることがあります。これらの治療量は、母乳経由で摂取してしまうロキソニンの推定量をはるかに上回ります。つまり、医療管理下であれば新生児であってもNSAIDsの代謝・排泄はある程度可能であり、母乳中に混入する程度の微量(ナノグラム単位)であれば、乳児の未熟な代謝能をもってしても、体内に蓄積して中毒域に達する可能性は極めて低いと推測されます。
ただし、注意すべきは「黄疸(高ビリルビン血症)」が強い新生児です。ロキソニンが高い蛋白結合率を持つことは前述しましたが、これは血中でビリルビンとアルブミンの結合部位を競合し、遊離ビリルビンを増やして核黄疸のリスクを高める(ビリルビン置換作用)可能性が理論上懸念されます。現時点での臨床報告では、ロキソニンによる明確な核黄疸の悪化は報告されていませんが、重度の黄疸がある新生児に対しては、より慎重な観察、あるいはアセトアミノフェンへの代替を検討するというのも、プロフェッショナルなリスク管理の一つと言えるでしょう。
このように、単に「移行量が少ない」という事実だけでなく、受け手である「乳児の生理機能」まで踏み込んでアセスメントすることで、より個別性の高い、説得力のある服薬指導が可能になります。
日本小児科学会

京都廣川書店 分子病態薬物治療学 第2版 生化・生理・薬理的視点にたった疾患へのアプローチ 2020 秋葉聡他 019S3D