量子科学技術研究開発機構量子生命科学研究所の研究概要
量子科学技術研究開発機構(QST)の量子生命科学研究所は、2019年4月に量子技術と生命科学を融合する世界的研究拠点として発足しました。この研究所では、量子論や量子技術を生命科学研究に応用することで、従来の手法では解明できなかった生命現象の本質に迫る革新的な研究開発を推進しています。
研究所は「量子計測・センシング技術」「生命現象の量子論的解明・模倣」「量子生命科学分野の人材育成」という3つの主要テーマを掲げています。これらのテーマに基づき、量子生命医工グループ、量子生命センシンググループ、量子生命スピングループ、量子生命構造グループ、量子生命システムグループという5つの専門グループが、それぞれの研究領域で先端的な研究活動を展開しています。
千葉県に建設された研究施設は延床面積6,980平方メートルを有し、気密確保や差圧管理による安全性の高い実験環境を整備しています。メカニカルバルコニーを設置した実験室は高い更新性とメンテナンス性を実現し、多様な研究ニーズに対応できる柔軟な研究空間となっています。
量子生命科学研究所における量子センサー技術の開発
量子センサー技術は、量子生命科学研究所の中核をなす研究領域です。次世代量子センサーチームでは、ナノ量子センサーを活用して細胞内の温度、pH、ラジカルなどの物理化学的パラメーターを単一細胞レベルで計測する技術の創製に取り組んでいます。
参考)TOP
この量子センサー技術は、生活習慣病や炎症から体を守る先制医療への応用が期待されています。研究所では光とMRIを組み合わせた酸化ストレス評価技術を開発し、発症前の段階で疾患を検出する技術の実用化を目指しています。具体的には、がんの微小転移や前がん状態の検出、感染症による心臓や脳への障害リスクの推定など、従来技術では困難だった超早期診断が可能になると考えられています。
参考)「酸化ストレス」を検出する世界初の量子センサーを開発 -光と…
量子操作を用いた蛍光検出効率の100倍向上にも成功しており、ウイルス感染症の早期・迅速診断への応用が進められています。この技術は5年後の実用化を目標に、製薬企業や半導体材料メーカーとの協力体制を構築しながら開発が進められています。
光とMRIを使った酸化ストレス評価技術の詳細(QST公式プレスリリース)
量子生命科学研究所の再生医療分野への貢献
量子再生医工学チームでは、ナノ量子センサーなどの量子技術を再生医工学に応用し、細胞の品質管理技術の革新に取り組んでいます。再生医療において課題となっている幹細胞や再生細胞の細胞状態の評価について、物理化学的パラメーターの計測によって実体を把握する技術を開発しています。
参考)研究
従来の分化誘導法は発生学に倣い再生因子の添加濃度や反応時間を再現していますが、実際の生体内での分化過程で変化する温度やpH、ラジカルなどの情報は極めて不足していました。量子技術を活用することで、これらの物理化学的パラメーターを正確に計測し、複雑な機能を発揮する細胞種の分化誘導法確立に貢献しています。
生体内外での幹細胞や再生細胞を単一細胞レベルで診断可能な量子技術を確立することで、再生医療やがん医療などの先進医学分野への貢献を目指しています。移植前の品質管理だけでなく、移植後の生体内環境における細胞状態の診断も可能になることで、再生医療の安全性と有効性の向上が期待されています。
量子再生医工学チームの研究詳細(チーム公式サイト)
量子生命科学研究所における重粒子線治療研究の進展
QSTでは25年以上にわたり重粒子線がん治療の研究を推進し、14,000人を超える患者の治療実績を積み重ねてきました。骨軟部や頭頸部腫瘍、前立腺がん、局所進行性膵がん、肝臓がん、肝内胆管がん、大腸がん術後再発、子宮頸部腺がんが保険適用となり、治療照射期間も肺がんで6週間から1日に短縮するなど、患者の生活の質(QOL)向上に大きく貢献しています。
参考)次世代重粒子線治療研究プロジェクト – 量子科学技術研究開発…
重粒子線治療法は世界に先駆けて実運用に成功した日本発の技術であり、1994年から2023年度までの期間に約42,000名以上の患者の治療に成功しています。国内では現在7施設で年間約3,600人の治療が行われており、台湾や韓国でも日本製の重粒子線治療装置が導入されています。
現在、QSTでは高度な治療ができる小型の重粒子線治療装置「量子メス」の開発を進めています。レーザー駆動イオン入射装置の原型機開発やレーザー打音検査装置の要素技術開発が進展しており、適応となる全てのがんの治療効果を高め、より多くの患者に届けることを目指しています。
参考)https://www.mext.go.jp/content/20240827-mxt_kiso-100000128_1.pdf
量子生命科学研究所の超偏極MRI技術と代謝診断への応用
量子超偏極MRIチームでは、画像診断の高度化を実現する革新的な技術開発に取り組んでいています。生体内における室温超偏極MRIに成功し、56.7秒もの長寿命超偏極分子プローブを創製するという顕著な成果を上げました。
参考)「がん死ゼロ・認知症ゼロ健康長寿社会実現を目指す」 量子科学…
担がんマウスでの応用計測を実施し、物質の代謝情報を可視化することに成功しています。この技術は従来のMRIでは検出が困難だった微細な代謝変化を捉えることができ、がんの早期発見や治療効果の評価に革新をもたらす可能性があります。
参考)https://www.nra.go.jp/data/000396439.pdf
JST創発的研究支援事業では「超偏極−核磁気共鳴法で創発する未病の科学と代謝診断治療学」というテーマで研究が進められており、病気になる前の段階である「未病」の状態を科学的に解明し、予防医療に貢献することを目指しています。量子技術を用いた超高感度MRI/NMRは、新たな計測技術として今後の医療診断の発展に大きく寄与すると期待されています。
量子生命科学研究所における構造生物学研究の最前線
量子生命構造グループでは、中性子を用いた全原子構造解析において1.2Åという高い分解能を達成し、ペプチド結合の新たなモデルを提唱しました。単量体として世界最大分子量の中性子解析にも成功しており、タンパク質の立体構造解明において国際的に高い評価を得ています。
神経変性疾患については、細胞毒性の強さとアミロイド凝集体の原子運動との関係を原子レベルで明らかにするなど、インパクトの高い成果を創出しています。これらの研究成果は、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患の発症メカニズム解明と新たな治療法開発に貢献することが期待されます。
参考)https://www.qst.go.jp/uploaded/attachment/45722.pdf
電子物性生命科学チームや相転移生命科学チームでは、生体分子の機能発現における量子効果の役割を探究しています。光合成、磁気受容、酵素反応、認知神経科学といった多様な生命現象において、量子効果がどのように関与しているかを明らかにすることで、生命の本質的理解を深める研究が進められています。
量子生命科学研究所の産学連携と社会実装に向けた取り組み
量子生命科学研究所では、研究成果の社会実装を目指して積極的な産学連携を推進しています。村田製作所や堀場製作所などの参画企業と連携し、固体量子センサーの実用化に向けたフラッグシッププロジェクトを展開しています。
参考)https://www.mext.go.jp/content/20211217-mxt_kiso-000019909_5.pdf
大阪大学量子情報・量子生命研究センターとは、量子コンピュータを活用した材料開発・評価手法に関する共同研究を開始しており、凸版印刷などの企業との協力関係も構築しています。量子化学計算アルゴリズムの確立により、新規材料開発・評価の高速・高精度化を実現することを目指しています。
参考)凸版印刷、阪大量子情報・量子生命研究センターと量子コンピュー…
ニコンソリューションズとの共同研究も開始されており、生体ナノ量子センサーの実用化に向けた取り組みが加速しています。複数の民間企業からも共同研究の申し出があり、エンドユーザーとなり得る企業との連携先を精査しながら、実用化に向けた体制を整備しています。
参考)https://www8.cao.go.jp/cstp/gaiyo/sip/220303/sanko3-ryoshi2.pdf
千葉大学大学院には量子生命科学コースが設置され、次世代の研究者育成にも力を入れています。量子生命科学会との連携を通じて、学術界全体での知識共有と人材育成のネットワークを構築しています。
量子生命科学研究所が切り拓く未来医療の可能性
量子生命科学研究所の研究は、がん死ゼロ・認知症ゼロの健康長寿社会実現に向けた重要な役割を担っています。量子技術を利用した生命科学の革新により、精神・神経疾患、固形がん、多発・微小がん等に対する診断・治療技術の研究開発が進展しています。
未病の機構解明、細胞の分化機構、新興感染症への対応など、将来の医療課題に対する解決策の創出が期待されています。量子から分子・細胞・個体の階層にまたがる生命理解に量子技術の応用で迫ることで、突然変異、環境への適応、発生、進化、老化、疾病といった高次生命現象の解明を目指しています。
量子効果に基づく生命の進化(秩序化)と熱力学(無秩序化)の止揚・統合という根本的な問いにも取り組んでおり、生命の起源や進化の謎に迫る研究も展開されています。細胞間コミュニケーションの解明や細胞シミュレータ、ヒューマンデジタルツインの構築など、生命科学の最先端領域での研究成果が次々と創出されています。
量子生命科学の推進に関する提言書2025(PDF)
量子生命科学研究所における量子生命情報科学の展開
量子生命情報グループでは、タンパク質機能解析と量子生命情報科学の研究を通じて、生命現象の情報処理メカニズムの解明に取り組んでいます。生体分子シミュレーションチームでは、分子動力学計算により細胞内エネルギーの流れや生体分子の作用機構を予測する研究が進められています。
量子認知脳科学チームでは、脳の認知機能における量子効果の役割を探究しており、意識や記憶といった高次脳機能の本質的理解を目指しています。量子バイオエンジニアリングチームでは、量子効果を利用した細胞の制御・改良技術の開発に取り組んでおり、生命の分子機構の予測と再構築を目標としています。
生物時計チームでは、JST創発的研究支援事業として「概日Ca2+振動の原理解明と操作」というテーマで研究を進めています。生物が持つ体内時計のメカニズムを量子論的視点から解明することで、睡眠障害や時差ぼけといった現代社会の健康課題に対する新たな解決策の提供が期待されています。
量子免疫学チームや量子発がんチームでは、免疫応答やがん化のメカニズムを量子レベルで解明する研究を展開しています。量子レドックス化学チームでは、細胞内の酸化還元反応における量子効果の役割を研究し、老化や疾病の発症メカニズムの理解を深めています。
これらの多岐にわたる研究領域が有機的に連携することで、量子生命科学という新しい学術領域が発展し、人類の健康と福祉に貢献する革新的な技術が次々と生み出されています。
参考)https://manabitoya.com/quantum-structural-life-science-laboratories