ヒドロキシ基がNMRで見えない理由
ヒドロキシ基プロトンの交換現象とNMR信号
ヒドロキシ基(OH)のプロトンがNMRスペクトルで観測されない最大の理由は、プロトン交換という現象です。アルコールやフェノールのヒドロキシ基は、分子間で水素結合を通してプロトンが移動・交換する過程が存在します。この交換速度がNMRの測定タイムスケールよりも速い場合、信号はブロードになったり、完全に消失したりします。
詳しいNMR測定における酸性プロトン交換の原理
特に重水(D₂O)や重メタノール(CD₃OD)存在下では、化合物中の酸性プロトン、すなわちOH、NH、カルボン酸のプロトンなどが交換され重水素化されます。これらのプロトンの¹H NMRスペクトルにおけるピークは消失するため、どのピークが酸性プロトンなのかを判定する有用な手法として利用されています。実際の研究では、アミノ基のピークを重水添加によって制御し、目的のスペクトルを明瞭化する手法が用いられています。
参考)NMR ①
プロトン交換の速度は、溶媒の種類、pH、温度、サンプル濃度などの測定条件に大きく依存します。脂肪族アルコールの水酸基の吸収線はδ5~0.5の広い領域に現れますが、これは水酸基が水素結合をしていることに由来しており、交換速度が速いとブロードな信号として観測されます。
参考)https://www.chem-station.com/yukitopics/nmr-analysis.htm
ヒドロキシ基NMR信号のブロードニング原因
NMRピークがブロードニング(線幅の広がり)する主な原因の一つが、前述したプロトン交換によるものです。アミンや水酸基のプロトンピークがブロードする理由として、分子間でのプロトン交換過程が挙げられます。
参考)実験でとった1H-NMRスペクトルがブロードニングしているん…
具体的な測定例として、3 ppm付近にブロードなシングレットが現れる場合、これはアルコールのヒドロキシ基のプロトンである可能性が高いです。他のピークが非常に鋭いにもかかわらず、このピークだけが幅広いのは、ヒドロキシ基プロトンの速い交換によるものです。
参考)1H-NMRで、3ppmのところにブロードなシングレットが現…
サンプル濃度もブロードニングに影響します。サンプル濃度が高いと粘度が高くなり、サンプルが不均一となりやすいため、局部的な磁場の環境が乱れてシグナルがブロードニングすることがあります。¹H NMRがブロードニングしている場合は、対応する¹³Cシグナルが観測されない場合があるため、NMR溶媒、濃度の検討やpHの変更を行い、できるだけ¹Hのシグナルをシャープにすることが重要です。
参考)NMRの測定がうまくいかないときは?(その①)|siyaku…
フェノール類のNMRスペクトルを測定する際に水を添加すると、水酸基プロトンと水プロトンの交換が起こるため、両シグナルは重なった幅広いバンドとして観測されます。金属塩の添加により、この交換速度を制御し、水酸基プロトンのシグナル線幅を変化させる技術も開発されています。
参考)各種金属塩添加によるフェノール類水酸基プロトンのNMRスペク…
ヒドロキシ基の重水素交換とNMR測定への影響
重水素交換は、ヒドロキシ基がNMRで見えなくなる重要な要因であり、同時に構造解析の強力なツールでもあります。酸性プロトンは重水(D₂O)の添加により交換が起こり、OHまたはNHプロトンがある場合に重水を添加するとODやNDとなり、¹H NMRスペクトルにおけるシグナルは消失します。
NMRの原理と測定における交換性水素の扱い方
重水素が置換した核は軽水素が置換した核と化学シフトが異なり、重水素の個数により化学シフト変化量も変わります。この現象を利用して、どのシグナルがOH、NHなのかを判定可能となります。
参考)http://www.oec.chem.sci.isct.ac.jp/PDFs/OrgChem4/OrgChem4-06.pdf
D₂Oを使用したNMR測定では、通常4.7 ppm付近にHOD(半重水)ピークが現れます。これは交換可能なプロトンがD₂Oと交換して重水素化されることにより生じます。化合物中に水が混入している場合にも、重水を一滴加え混和することで水のピークを消すことができるため、スペクトルの解析がより容易になります。
参考)Reddit – The heart of the inte…
微量試料のD/H交換を行う場合、あらかじめD₂OまたはMeODに溶解と濃縮を数回繰り返してD/H交換を行う手法が用いられます。水素重水素交換質量分析法(HDX-MS)では、タンパク質中の水素のうち、アミノ酸側鎖に含まれるものや炭素に直接結合したものは交換されないが、アミノ基や水酸基の水素と重水素の交換は速やかに進行することが知られています。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/massspec/66/6/66_S18-44/_pdf/-char/ja
ヒドロキシ基を観測するための測定条件の最適化
通常の測定条件では観測が難しい水酸基プロトン信号ですが、測定条件を工夫することで観測が可能になります。試料を軽水と重溶媒を組み合わせた混合溶媒に溶かし、低温下で測定を行うことにより信号が観測できることが知られています。
実際の測定例として、50 mMのスクロースを軽水と重アセトンの混合溶媒(混合比2:3)に溶かしたサンプルを-20°Cの低温下で測定すると、5.5 ppm~6.5 ppm付近に水酸基プロトン信号が観測されます。さらにHMBC法(Heteronuclear Multiple Bond Correlation)などの2次元測定を用いることで、水酸基プロトンとカーボンの相関信号を観測することができます。
低温測定による水酸基プロトン信号観測の実例
低温測定を行うためには、コントローラー付き冷却器などの専用アタッチメントが必要です。電気冷却方式を採用しているため、液体窒素デュワーと異なり長時間の低温測定が可能で、液体窒素などの冷媒を汲む作業もないため、非常に容易に低温測定を行うことができます。
溶媒の選択も重要な要素です。目的のピークが他のピークに隠れている場合、他のNMR溶媒を試すことで、目的のピークが分離して観測されることがあります。特に二重結合領域や芳香族領域に関心がある場合、ベンゼン溶媒の使用が有効な場合があります。
残り1つのピークであるヒドロキシ基の信号は、容易に入れ替わることのできる交換性の水素原子由来なので、ピークは分裂しません。酸素や窒素と結合した水素が交換性の水素に該当します。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/70/4/70_186/_pdf
ヒドロキシ基NMR解析における実務上の注意点と独自の工夫
NMRによる正しい構造解析には、水酸基の観測に関する様々な知識と心掛けが必要です。2級水酸基がアシル化されることや、水酸基の隣のダブレットで観測されるメチル基と芳香環のメチル基との間にNOE(Nuclear Overhauser Effect)が観測されることなど、間接的な証拠から水酸基の位置を決定することも重要です。
参考)https://bunseki.jsac.jp/wp-content/uploads/2023/03/p088.pdf
フェノール性水酸基の化学シフトは、δ8~4.5の領域に吸収線が現れます。これもアルコールと同様に水素結合によるもので、完全に単量体であればδ4.5に吸収線が現れますが、強い分子内水素結合をしている場合には溶媒の影響を受けず低磁場側に現れます。
実務的なテクニックとして、Perfect Echo WATERGATE法などの水消しシーケンスを用いることで、水のピークを抑制しながらヒドロキシ基プロトン信号を観測する方法があります。この手法により、水信号に隠れていた水酸基プロトンの検出が可能になります。
測定パラメータの調整も重要です。測定範囲の中心周波数や測定範囲を適切に設定することで、目的のシグナルを確実に捉えることができます。金属錯体中のヒドリド配位子は高磁場にシグナルを示す(通常は負の化学シフト)ため、特殊な化合物の場合は測定範囲の変更が必要となります。
エタノール混合溶媒中では、高解像度のNMR装置(600MHz)を用いることで、水とエタノールのOH基のピークを別々に観察することが可能です。このような高感度測定により、これまで観測が困難だったヒドロキシ基の詳細な挙動を解析できるようになってきています。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan/114/6/114_363/_pdf
また、OHやNHのピークが他のピークと重なっている場合は、重水添加テクニックを利用することで見やすくなる場合があります。これにより、複雑なスペクトルの解析が大幅に簡略化されます。