麻酔前投薬一覧と特徴
麻酔前投薬は全身麻酔の導入・維持を円滑にし、麻酔薬や手術による副作用を軽減する目的で投与される薬物群です 。現在の臨床現場で使用される主要な前投薬は、その作用機序により複数のカテゴリーに分類されています。各薬剤の特性を理解することで、患者個々の状態に応じた適切な選択が可能となります 。
参考)https://www.kochi-u.ac.jp/kms/fm_ansth/member/morpdf/20110512.pdf
従来は多施設で何らかの前投薬が投与されてきましたが、近年では成人の予定手術では麻酔前投薬は不要とする傾向が強まっています 。しかし、特定の患者群や手術条件においては、依然として重要な役割を果たしており、医療従事者には最新の知識と適切な判断力が求められています。
麻酔前投薬ベンゾジアゼピン系薬剤の種類と効果
ベンゾジアゼピン系薬剤は麻酔前投薬の中核を成す薬物群であり、抗不安、鎮静、健忘、筋弛緩の多面的な効果を有しています 。代表的な薬剤としてミダゾラム、ジアゼパム、エスタゾラムが挙げられ、それぞれ異なる薬物動態特性を示します 。
参考)https://anesth.or.jp/files/pdf/hypnosis_sedative_20190418.pdf
ミダゾラムは最も広く使用される前投薬であり、欧米諸国では1990年代からミダゾラム内服による小児の麻酔前投薬が一般的となり、成人でもミダゾラム経口薬が最も使われている麻酔前投薬です 。その作用時間の短さと呼吸抑制の軽微さから、現在の臨床では第一選択とされています 。
参考)https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11120000-Iyakushokuhinkyoku/0000128613.pdf
ジアゼパムは長時間作用型のベンゾジアゼピンとして、手術前夜の睡眠障害に対して使用されることがありますが、ERASプロトコールでは作用時間の長い鎮静薬・睡眠薬の使用は推奨されていません 。一方、エスタゾラムは中間型の作用時間を持ち、手術前夜に1-2mgを就寝前に経口投与する用法が確立されています 。
参考)https://www.kochi-u.ac.jp/kms/fm_ansth/member/morpdf/20110105.pdf
麻酔前投薬抗コリン薬の臨床応用
抗コリン薬は主にアトロピンとスコポラミンが使用され、副交感神経遮断による気道分泌抑制と有害神経反射抑制を目的として投与されます 。アトロピンは0.25mgまたは0.5mgを導入30分前に筋注することで、有意な気道内分泌減少効果が確認されています 。
参考)前投薬 − 歯科辞書|OralStudio オーラルスタジオ
気道内分泌はアトロピン前投薬により有意に減少し、特に膝胸位・側臥位・腹臥位や頸部・口腔内・胸腔内手術において効果的です 。しかし、近年では前投薬としての抗コリン薬の必要性が疑問視されており、症例を選んで投与することがより円滑な麻酔を行うために有用とされています 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsca1981/7/3/7_3_330/_pdf/-char/ja
スコポラミンはアトロピンに比べて分泌抑制作用が強い一方、副交感神経遮断作用は弱く、鎮静・中枢抑制作用を有するため、老人において妄想状態を起こすことがあり臨床では使用頻度が低下しています 。
麻酔前投薬H2受容体拮抗薬の誤嚥防止効果
H2受容体拮抗薬は胃酸分泌抑制により誤嚥性肺炎の予防を目的として投与される前投薬です 。代表的な薬剤としてファモチジン、ラニチジンが使用され、胃液のpH上昇により誤嚥時の肺損傷を軽減します 。
参考)https://kango-oshigoto.jp/hatenurse/article/4443/
一般的に胃液のpHは1.0-1.5の強酸性であり、酸度が高い胃液を誤嚥することで重篤な肺炎を引き起こす可能性があります 。H2受容体拮抗薬の投与により胃粘膜壁細胞のH2受容体を遮断し、胃酸分泌を抑制することで上部消化管出血の止血効果も期待されます 。
参考)医療用医薬品 : ファモチジン (ファモチジン静注10mg「…
しかし、H2受容体拮抗薬は副次的な薬理作用として中枢神経系への影響があり、血液脳関門を通過して脳内のH2受容体を遮断することでせん妄や錯乱などの精神神経症状を引き起こす可能性があります 。特に腎機能が低下している高齢者では排泄遅延により副作用のリスクが高まるため、慎重な投与が必要です 。
麻酔前投薬オピオイド鎮痛薬の適応と限界
オピオイド鎮痛薬は術前の鎮痛と代謝抑制を目的として前投薬に使用されることがありますが、その適応は限定的です 。代表的な薬剤としてフェンタニル、モルヒネが挙げられ、特にフェンタニルは口腔粘膜吸収型製剤として小児の麻酔前投薬に有用性が報告されています 。
参考)https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00068271.pdf
フェンタニルクエン酸塩含有ペロペロキャンディーは、小児患者において従来のミダゾラムシロップと同等の麻酔前投薬効果を示しながら、より良好な覚醒状態を維持することが臨床試験で確認されています 。新生児から6歳以下の小児患者を対象とした国内第III相試験では、91.7%の症例で有効と判定されました 。
しかし、オピオイド系薬剤は呼吸抑制、循環抑制などの副作用リスクがあり、特に1歳未満の乳児では安全性が確立していないため、適応の判断には十分な注意が必要です 。また、術後の遷延効果による摂食やリハビリの遅れも考慮すべき要因となります。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspccs/30/6/30_612/_pdf/-char/ja
麻酔前投薬の現代的アプローチと個別化医療
現在の麻酔医学では、ERAS(Enhanced Recovery After Surgery)プロトコールの普及により、麻酔前投薬の位置づけが大きく変化しています 。長時間作用型の抗不安薬による前投薬は術後にも遷延する可能性があるため、摂食やリハビリの遅れにつながる懸念があります 。
参考)https://www.keijinkai.com/wp-content/uploads/2018/04/sala2014_9-10.pdf
ERASプロトコールでは「麻酔前投薬は適応を選んで行うべきである」とされ、成人の予定手術では前投薬を使用しない傾向が強まっています 。一方で、小児や動物では必要性が高く、患者の年齢、健康状態、手術内容を総合的に考慮した個別化された前投薬戦略が重要となります 。
理想的な前投薬は投与時の苦痛がなく、作用時間が短く、呼吸系への抑制が少なく、術後の覚醒に影響を与えないものです 。これらの条件を満たすため、各薬剤の薬物動態特性を十分に理解し、患者個々の状況に応じた最適な選択を行うことが現代の麻酔管理において求められています。